ふるふる図書館


第三話



「あの下級生はどうしたんだ。いつも貴様に蒸し暑い梅雨時季の湿気みたいにさかんにまとわりついていたじゃないか」
 まったく、彼ときたらずいぶんな言いようだ。
「林間学校だよ」
 一泊二日の高原旅行。我が校の恒例行事に旅立っていったのだ。
「僕たちも参加したよね。うん、あれはほんとうに楽しかったねえ」
 僕なりの渾身の、精いっぱいのいやみを口にした。だって彼があの企画を満喫できたはずはない。行くのだってさんざん渋っていたのだ。
 案の定、彼はむっつりしてぷいっと顔をそむけた。どうやら奏功したらしい。会心というにはささやかすぎる、抵抗というにはつつましすぎる一撃だけど。

 入学から卒業まで、よほどのことがないかぎりルームメイトは変更されない。だからあのときも、彼と僕は寮の同室だった。
 学校で配られたお知らせのプリントを自室で眺めながら、僕は彼に話しかけた。
「林間学校の用意、しないといけないね」
「ふんっ、くだらない」
 彼は冷たく吐き捨てた。あたかも蛇蝎に対するがごとき口ぶりに、僕はしばしあっけに取られた。そう、まだ僕は彼の本性をよくわかっていなかったのである。幸か不幸か。
「さっき、教室であんなに楽しそうに話してたじゃないか」
「貴様、本音と建前も知らんのか。その歳にもなって」
「きみはいやなの? おもしろそうなのに。ハイキングに、飯盒炊さんに……」
「いやだ」
 ぴしゃりとすげなく僕の期待に水をさす。
「まったくもっておもしろさが見つからない。時間の浪費だ。好き好んで虫に刺され陽射しに焼かれ雑魚寝をし疲れるために出張る意味がわからない。支度は手間ひまかかって面倒だし好きなシャンプーは使えないし。まっぴらだ。休む。断じて僕は行かない」
「そうすると、来年参加させられるんじゃなかったっけ?」
 さんざんごねた後に僕の指摘を受け、彼はぎりぎり音がしそうなくらい唇を噛んだ。
「貴様は行くんだな」
「うん」
「何があっても?」
「そりゃあ、まあ」
「……わかった」
 彼は僕を大きな瞳でぎろりとにらみつけた。いったい僕に何の恨みがあるんだ。
「そこまで言うなら僕も行ってやる」
 僕、そこまで言ったっけ? そもそも、「そこ」ってどこだよ。
 我ながら至極もっともな疑問だと思うのだけど、問い質すことができずに結局胸に飲みこんでしまう僕だった。

 それでも彼は優雅な微笑と物腰で、鬼門たるイベントを乗り越えていった。その根性と猫かぶりには恐れ入った。尊敬なんかしないけど。
 四六時中誰かとともにいて、相当ハードなストレスが負荷されているのはまちがいなかった。
 だからさっさと就寝すればいいものを。
 彼はいっかなふとんに入ろうとしなかった。宿舎の同じ部屋の者たちが消灯もせずに騒ぐのに付き合って、話の輪に仲間入りしていた。
 彼のふとんは部屋のいちばん奥。僕のはすぐ隣だった。彼の圧力あるいは脅迫によるのは言わずもがな。
 僕だって、何も旅行に来てまで彼と並んで寝るのはごめんこうむりたかったのだ。
 でも。
 もし彼がいつもみたいに寝ぼけて、僕の代わりに隣の級友にあんなことこんなことをしたらどうなる?
 瞬く間にうわさが広まるだろう。揶揄され、後ろ指さされ、いじめにあい、いやがらせを受け、この学校にいられなくなるかもしれない。想像するだに血が凍る未来だ。僕はちっとも悪くないのに!
 そんなわけで、僕は彼の脇に床をのべることになったのだった。
 やがて明かりが消され、みんなが寝静まった。ただし一名を除いて。
「まだ起きてるの?」
 彼の気配へ小声でたずねた。
「明日も早いんだから寝たら?」
「眠れない」
「きみらしくないね。眠くないの?」
 彼の方へ寝返りを打つと、闇に慣れた目に彼の姿が映った。僕に体ごと向きなおり、僕を見つめていた。
「もしかして疲れすぎた?」
「いやなんだ」
 ぼそりと答えが返ってきた。
「何が」
「人に寝顔を見られるの」
 一瞬耳を疑い、次にはほとほとあきれ果てた。毎日、僕が起こすまで惰眠をむさぼってるのはどこの誰だよ。寝姿を無防備に僕にさらしまくっているくせに、どうして今夜に限って気にしてるんだよ。
「大丈夫、全員寝てるよ。仕方ないなあ。僕が明日の朝一番に起こしてあげるよ。だからおやすみ」
「約束?」
「約束」
 横になったまま、彼は無言でぼくのすぐそばに寄ってきた。するりと僕の上掛けの中に腕をすべりこませて、僕の手を探し当てるときゅっと握った。
「じゃあ、ずっとこうしていろよ。これで裏切りなしだからな。約束を破ったらどうなるかわかってるだろうな」
 吐息が耳にかかるほど近くて、凄むというにはくすぐったすぎた。ささやき声と細い指が頼りなくて、脅すというには甘すぎた。
 こんなところを誰かに見つかったらただじゃすまない。確かに効果てきめんだった。僕はおかげで、たったひとりまんじりともできずに夜明けを迎える羽目になったのだ。

「うう。ねっむううううい!」
 翌日の朝まだき。まだ誰もが夢の中。半分以上うとうとしているくせにぶつぶつ舌足らずに不平をこぼす彼の手をひいて、僕は宿舎の周辺を散歩していた。ほんとうに僕は世話焼きすぎる。寝不足なのは僕だって同様だ。それでも、初夏のさわやかな空気と美しい日の出とあざやかな緑と小鳥のさえずりに、全身の細胞が活性化する心地がした。
「こんなにすがすがしいのに。気持ちよくない?」
「ごーもんだごーもん。もう、ぜーったい来てやんないから」
「はいはい。もう、林間学校はないですから。今日で終わりですから」
「うん。僕、がんばったよね?」
「はいはい。よくがんばりました」
「じゃあ、ごほーびちょうだい?」
「はいはい」
 しゃがんで、道端に咲いていた黄色い花を一輪おざなりに摘んで渡した。名前なんかわからない、たまたま折りよく目についた花だ。彼はうつむいて「手抜きだよ」と可愛い口をとがらせた。
 文句を鳴らす割にはそっと優しく茎を支えている指先を見て、起こされるまで彼が僕の手をしっかりつないで離さなかったことを思い出していた。

「ふうん。貴様、あのろくでもない行事、楽しかったわけ」
 彼は腕組みしてそっぽを向いたまま、つんけんした口調で言う。
 だけど。
 やわらかい髪の間から見える耳が隠しようもなくほんのり色づいている。口もとがほっとしたようにゆるんでいる。
 僕は気づかないふりをする。
 あの朝あげたごほうびが押し花にされて、彼のお気に入りの文庫本にはさまれているのだって。
 僕は知らないふりをしている。

20080614
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP