ふるふる図書館


第一話



 天使だ、なんて陳腐でありきたりすぎる表現しか思い浮かばない。彼の寝顔を目にするといつも。
 寮はふたり部屋。僕は早起き。だから毎朝、彼のすやすや眠りこむ姿を独占している。
「んん……」
 小さく身じろいでまぶたをうっすらひらいた彼は、ふとんをまくり僕に手をのばした。
「何? どうしたの?」
 わざととぼけてみせる僕。
「んー。んー!」
 子どもがむずかるような鼻声を何度も発し、足をばたばたさせる彼。
「はいはい」
 彼のベッドに入り、ふとんを彼と自分にかけた。僕の体温をたしかめて、彼は満足げにあどけなく笑うと、僕の体にぴったりくっついてまた寝息を立てはじめた。窓からさしこむ朝日に、耳が桃色に透けている。黒い髪は細くてやわらかくて、光を受けると栗色に輝く。
「ほら、そろそろ支度しないと」
 ゆすっても、彼は「んー」とか「むー」とかぐずるばかり、一向にしゃっきりする気配を見せない。
「しかたないな、今回だけだよ?」
 口にしてから、昨日もおとといもその前も同じ台詞を言っていることに気づいた。
 やれやれ、とつぶやきつつ手をひっぱって体を起こし、パジャマを脱がせてワイシャツを着せた。次に体を横たえてパジャマを脱がせて制服のズボンと靴下を履かせた。眼鏡も装着したが、レンズを隔てた目はまだ閉じたまま。
 僕は彼にかがみこみ、軽くひらいたつややかな赤い唇にささやいた。
「いい加減に起きないと、キスするよ?」
 言い終わるが早いが、腹にすさまじい衝撃がきた。
「ふざけるな不埒者」
 ひとことにべなく言い放ち、痛みに声も出ずに苦悶する僕を取り残し、容赦ない蹴りを入れた張本人はさっさと洗面所へ去っていった。

 廊下ですれちがう生徒たちひとりひとりにおだやかな微笑みとさわやかなあいさつを返す、生徒会の会長様。
 完璧に恵まれた容姿と成績、誰にでも親切な性格と言動、真面目で品行方正な態度から、熱烈な崇拝者は学年問わずわんさといる。
 気さくでありながら高貴で上品な高嶺の花。それが僕のルームメイトと同一人物だとは。果てしない悪夢を見ている気分だ。
「どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」
 腹をおさえ、彼に遅れがちに追従する僕に、級友のひとりが声をかけてきた。僕が答えるより先に、彼がさっとすばやくそばに寄り、僕の背中に手をかけた。
「大丈夫かい? もしつらいのなら保健室に連れて行くけど」
 さも心配そうな口調と表情。しらじらしいったらありゃしない。
「仮病じゃないのか? おおかた宿題を忘れたとか、そんなところだろ。たとえ足蹴にされても痛手なさそうだもんな」
 別の級友がからかった。
 畜生! 今この場で真実を暴露できたら、どんなにすっきりするだろう。
 しかし、彼の正体を主張したところで、誰も信じてくれないかもしれない。いや哀しいかなその可能性は実に大きい。僕はみんなにうそつき呼ばわりされ、全校生徒を敵にまわした上に、彼の報復、ねちねちしたいびりといじめに泣かされるのだ。
「いいよ、平気だから」
 彼に向かって愛想笑い。
「くれぐれも無理するなよ」
 このペテン師め! 僕はひそかに歯噛みした。
 彼はほかの人に対するのとは質の異なる笑みを浮かべた。
「ばらすなよ、さもなくば……」
 僕にだけ解読できる暗号。にっこり笑って脅迫か。まるっきりやくざじゃないか!

「うわあ、ひどいなあ。あざになってる!」
 夜の自室でシャツをまくって確認したとたん、思わず叫んだ。鳩尾にくっきりついた青い跡が痛々しい。
「ふん。因果応報だ。馬鹿め」
 彼は鼻でせせら笑った。優等生の生徒会長のおもかげなど見る影もない。会長様の信奉者どもにこの表情をつきつけて幻滅させてやりたい。彼の人気をどん底までも失墜させてやりたい。
「僕が何をしたって言うんだよ。添い寝も着替えもさせてあげてるのに」
「あげてるだと? えらそうに」
 彼は比類なきまでにひややかだ。
 ほんとうにそのうち襲ってやろうか、まったく。
「ほざきたい戯言はそれだけか? もう寝るから物音立てるな。うるさくしたら即座に息の根止めてやる」
 彼はすでにベッドにもぐりこんでいる。小学生よりも早い就寝だ。そのくせ朝にめっぽう弱いのだから、いぎたないことおびただしい。
 夜の眠いときには殺人的な機嫌の悪さを発揮するので、僕は逆らう気力もなく息をひそめてひとりおとなしく過ごした。
 ああ、なぜこんなに虐げられないといけないのだ。無体すぎる。

 翌朝もまた、僕の方が先に起床した。彼はまだ熟睡している。
 少し長い髪が額にかかっていた。僕がそっと指でかきあげると、彼はわずかに声を上げ、まつげをぴくりと震わせた。しかし本格的に覚醒する様子はない。
 僕は慎重に慎重に、彼のさらさらした髪をなで、小ぶりの耳をあらわにし、桃色の耳たぶをそっとなぞった。
 彼の目がゆっくりとあいた。焦点が定まらない、ぼんやりとした、黒目がちの瞳が戸惑ったように揺れていた。
 あざやかな色をした唇を指先でからかうようにたどると、そこから吐息がもれた。一日がまだ始まらない静かな部屋に甘ったるく響いて、僕をどきりとさせる。
 僕は仰向けになっている彼の体にまたがった。これならいきなり蹴りを食らうこともない。
 彼の顔に優しく指をすべらせた。瞳をうるませ、きれいな眉をかすかに寄せはするものの、いやがっているふうではない。
 日ごろの怨恨と鬱憤を晴らすべく、執拗なまでに彼を愛撫した。彼の頬が紅潮し、呼吸が浅く速く短く荒く乱れていくのを確認して、溜飲がおおいに下がった。僕だけしか知らない、彼のありさま。彼に(かんちがいして)憧れているみんなは誰も見たことないのだ。
 ほかの人間のことを考えた瞬間、はっと我に返った。馬乗りになったまま凍りついてしまった。この先どうすればいいんだろう。続けるだなんて恐ろしいことが僕にできるだろうか? まだまだ命は惜しいし、平穏無事な学園生活をどぶに捨てる気にもなれない。
「もう、終わり?」
 舌足らずな声音が問いかけた。返答を躊躇し、僕は黙りこんだ。
 彼のまなざしと口ぶりが、突如として明瞭になった。
「そうか、終わりか。どけよ重いな」
 あわててベッドを降りると、彼は無言で身支度をととのえ出した。朝から普通に活動する彼など、同室になってはじめてだ。冷や汗が背筋を伝って落ちていくのを自覚した。相当怒っているのにまちがいない。
「ごめん」
 ぎこちなく謝りの言葉を舌に乗せた。ついと振り返った彼の目は、不機嫌そうにすがめられていた。
「謝るようなことをしたのか」
「いや、その」
 僕は唾を飲みこんだ。彼の視線は、逃げやごまかしを到底許すものではなかった。
「あの、さ。いたずらした、から。ごめん」
「ふうん?」
 ふたりのときは彼の態度は常に非情だと思っていたが、それはまだまだぬるかったということをはっきり悟った。彼の冷酷さのレベルに限度はないらしい。
「なるほど。あれは『いたずら』、ねえ」
 秒速でくりだされた渾身の蹴りに見舞われ、よける間も与えられなかった僕はまたもや腹を抱えてうずくまった。冗談抜きに呼吸が止まった。
「ふん、馬鹿め。だから貴様は度しがたいんだ」

 それからしばらく僕への彼の風当たりは、猛威をふるうブリザード並みに苛烈をきわめたのだった。

20060802
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