ふるふる図書館


第十一章



 広場から離れた、ひとけのないペイヴメントに少年の姿がありました。立派な身なりの紳士の腕に抱かれ、無心に眼を閉ぢてゐます。何かから解き放たれたやうに全身から力が抜けてをり、その整つた容姿から、等身大の人形かとも思へました。
 女は、ポケツトの中の石を握り締めました。夜道で役に立つからと云つて少年が呉れた螢石を、結局女は使ふことはありませんでした。いくら奇麗だとはいへ、単なる弗化石灰(ふつくわせきくわい)にすぎない鉱物が、まばゆくかゞやくわけはないのです。でも少年にさう告げず、女は黙つてゐました。
 もう此処に来ないで、と懇願されたとき、女は愕きませんでした。たゞ、少年にまとわりついてゐた翳が気掛かりでした。滅びをめざすやうな妖しい翳りを懸念せずにはゐられなくて、夏至祭の今宵、もしかしたら少年に会へるかもしれないとこの街にやつてきたのでした。
 女が歩み寄ると、ぐつたりと紳士に凭れてゐた少年は、ふとまぶたをひらきました。につこりとあどけなく微笑み、途切れ途切れに云ひました。
「きみは、あのときの。僕が、螢石を、あげた子だね。」
 女は急いで石を取り出し、少年の手に握らせました。そのとたん、息をのみました。
「石が、光つてゐるわ、」
 それを聞くと、少年はしんから可笑しそうにくすくすと笑ひ声をひゞかせました。鈴が転がるやうな澄んだ音色が、冷んやりとした大気をふるはせました。
「だつて、螢石だもの。何を愕いてゐるの。あゝさうだ、きみに薔薇星雲の欠片を見せてあげればよかつた。大きくて、きらきらして、とつても奇麗なんだ。紅水晶に似てゐるんだよ。それから、薔薇石英にも。僕、宝物の中で、あれが一等気に入つてゐるんだ。魔法使に出会つたときに、一緒に拾つたのだもの。」
 それが、さいごの言葉でした。少年がうつとりと眠るやうに引き取つた息は、仄かに乳香と没薬の匂ひがしました。
 少年が沈黙して仕舞ふと、螢石はきらめきを失ひました。蝋燭の炎が尽きる前に明るく燃え上がるやうに、星が命が終はる間際に激しくきらめくやうに、うすみどり色の石は、かつての持ち主と感応した光を放つたのでした。
 蒼褪めた瓦斯灯に照らされた石畳の道に立ち尽くし、女と紳士は、しばらく何も云ひませんでした。
「この子の知り合ひだね。」
「貴方が、この子の云つてゐた、」
 女は、たいそうな金満家には見えてもたゞの人間以外には見えない紳士を一瞥し、低声で続けました。
「わたし、この子の話を聴くのが大好きだつたんです。御伽噺みたいなことをたくさん話して呉れました。貴方は、この子に夢を見せてあげることができたのでせう。どうして醒ましてお仕舞ひになつたの。この子はもう、夢の世界でしか生きることができなくなつてゐたのに、」
「夢と知りつゝ夢を見るのは、難しいことなのだよ。少なくとも、普通の人間にはね。今まで、どんな子供も、大人になれば醒めて仕舞つた。皆、私を置いていつて仕舞ほうとしたのだ。」
 紳士は歎息し、少年の頬をなぜました。紳士の声は大きくないのに、静かな湖に投げこんだ小石のやうに深々と沈んでいきます。
「わたしには、貴方だつて普通の人間に見えますわ。年若い男の子を囲つて、夜だけ男の子の待つ別宅に帰つてくる、そんな人にね。」
 紳士は動じませんでした。口調はあくまでやさしくおだやかでした。
「貴女の云ふやうに、奇麗で愉しい夢を永遠に見せてあげることができれば、どんなにいゝことだらう。この子は、外の世界ではだめになる。貴女のゐるやうな世界ではね。」
「そんなのわからないわ。地道にでも精一杯努力して、自力で糧を得ることをおぼえた方が、この子のためにはよかつたかもしれない。」
「ほんたうにさう思ふかね、」
 紳士は凝と女に視線を当てました。女はわづかにたぢろぎました。
「ほら見てご覧、この子の美しさを。こんな子供が、汗水たらして手にまめを作つてあくせくと働いて、俗世の垢にまみれて、おもねつたりへつらつたりして、下世話な話題に調子を合はせて、浮世のつまらないくだらないことに愚痴をこぼしたりくだを巻いたりしてゐるところを想像できるかね、」
 女はひるみました。何不自由なくほしいものを手に入れて、愉快な娯楽に囲まれて、働きもせず遊び暮らして、蝶よ花よとかしづかれて送る日々。もしそんな甘やかな誘惑を差し出されたら、断ち切る自信が我が身にあるのか心許なくなつたのです。
 現に、少年は負けたのです。拝跪したのです。心身を売り渡したのです。いつそ美しいまでの脆弱さのゆえに。
 女はやうやう、反論を試みました。
「でも、この子は人間なのよ。夢で空腹を満たすことなどできない、」
「違ふよ。」
 紳士は確乎(しつか)りとした声で否みました。
「よく見たまへよ、自動人形(オートマタ)ぢやないか。話し、笑ひ、歌ひ、踊り、楽器を奏でる。貴女が見間違へてゐたのも無理はない。よくできてゐるだらう。私が長いこと捜し求めてやうやく見つけた、最高級の逸品だからね。今は発条(ぜんまい)が切れて仕舞つただけさ。巻いてやれば、目を開けて動き出す。またこれで遊べるやうになる。」
 まさか。ぎくりとして、女は少年に眼を釘付けにしました。妖言(およづれ)に決まつてゐます。でもたしかに、女は一瞬紳士の言を信じこみかけたのでした。まるで、さう、魔法にでもかけられたかのやうに。
 紳士は、執拗なまでに少年の滑らかさうな頬を愛撫してゐます。もはや女の方を一顧だにしません。女は一歩後退りました。
「そろそろ、私たちは失敬するよ。新しい生活をやりなほすのだから。今度こそ誰にも邪魔されずに、この子とふたりきりでね。」
 別れ際に紳士が女に向けた瞳は、奥で怒りがちりちりと燃えてゐました。怨まれてゐたのだ、と女は悟りました。愛する者を奪つた女を、紳士は激しく憎悪してゐたのです。
 紳士は、生絹(すゞし)の闇に消えました。汚邪(をや)の中で生きていく強さも、夢を見続ける強さも持つことができなかつた少年を、大切に腕に抱いて。
 ふたりの行き先を、女は見届けませんでした。知りたいとも思ひませんでした。遥かに遠い、遠いところだとわかつてゐるからです。其処に女は、決して辿り着くことができないのです。

20070715, 20140920
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