ふるふる図書館


第十五章 過去という名の亡霊



 慶は至って正直に、まじめにNに説明した。
「はじめての経験は強姦だった。だから、こういうことは好きじゃない。受け入れることもできない。気持ちいいとも思わない。だけど、もしかしたら将来、好きな人が現れる可能性がないともいえない。いざというときに拒絶したら相手を傷つけてしまうだろ。今のうちに慣れたいし、きちんとできるようにもなりたい」
 それをきっかけに、Nによるレッスンがはじまった。教室はいつも、慶のベッドだった。
 あまり経験豊富といえない慶の身を配慮してなのか、Nの態度は丁寧だった。激しく扱われると気持ちが冷え、苦痛にしか感じなくなる慶にとっては、ちょうどよかった。
 Nに、あれはしたことあるか、これはしたことあるか、といろいろ問いかけられ、慶はすべての質問に首を振った。能動的に向き合うことなどなかったのだ。Aには「それでいい」と言われていたけれども。
「じゃ、教えるから、やってみて」
 指南されたとおりに実践すると、Nはおどろいたようだった。
「ほんとにはじめて? うますぎない?」
「うそついてどうするんですか、先生」
 どうしてNにびっくりされるのか、慶にはさっぱりわからなかった。
「なんだか、慶のこと手放せなくなりそうだなあ」
「先生にちゃんとした相手ができたら、そんなこと言ってられなくなりますよ、どうぞご心配なく」
 通常の友だちどうしではしないことをしているのに、ふたりの関係は慶にはやっぱり友だちとしか呼びようのないものだった。からだを重ねているのが理由で恋人どうしになるということは、まかり間違ってもなさそうだったから、慶は心底安心した。恋だなんてわけのわからない重たいものを背負うことなんて、到底できない。からだのことだけで精一杯なのに、どうしてこころのことにまで負担をかけることができるのか。
 それにしても、友だちとこういうことができる人間になるとは慶は予想だにしていなかった。
 いや、そもそも、恋人とからだを重ねるなどできないだろうと遠い昔には考えていたのだ。好きな人に、いつもの自分でない自分を見られるなんて、すごく恥ずかしいからいやだと思っていた。自分がどう思われようと関係ないような、そんなどうでもいい人とできればいいって本気で考えていたのだ。
 なのに。
 恋人でも好きな相手でもないIとの一件は、癒えることのない傷を慶に与えた。どうでもいい人とできたらなんて願望があった見返りなんだろうか。いつになったら、自分は希薄になれるんだろう。からだに翻弄されずにすむんだろう。顔色ひとつ変えずに肉体のことを受け止められるようになれるんだろう。

 追憶しながら、うとうとしていたらしかった。
「こら、こたつで寝たらだめだよ。また風邪がぶり返すよ」
 Nの声とともに、肩を揺さぶられた。
 唐突に慶の口から、耳をつんざく悲鳴がついて出た。
「いや! やだ!」
「どうした?」
「取れない。取れないんだよ!」
 慶は完全に恐慌に陥っていた。
 慶のからだじゅうを這いまわる手の感触が、べったりとへばりついていた。胸部や腹部や、そこかしこに。Iと、Aが残していった跡。もしかしたら、今慶のそばにいるNのものもまじっているかもしれない。
「ほら、誰も慶に触っていないよ、落ち着いて」
 わかっていた。幻影か、幽霊とむなしく戦っているようなものだって。理解しているはずなのに、過去の見えざる手は慶の肌をなでまわすことをやめなかった。
 きもちがわるいきもちがわるいきもちがわるいきもちがわるいきもちがわるいきもちがわるい。
 こたつの中で、慶は絶え絶えに叫びながらもがいて、暴れて、七転八倒した。何もついていないものを振り払う動作をしながら。体に爪を立てたりもしながら。
「いやだ。あっちへ行け! あっちへ行けよ。もう、消えろよ、やめてくれよ、お願い、お願いだから……!」
 今ごろ出てくるな。今さら苦しめるな。
 突然のどがしゃくり上げた。
 息ができなくなった。手足の指先と、顔面が急速にしびれて氷のように冷たくなった。頭が割れるように痛み、吐き気がしてきた。動悸が乱れ激しくなった。
 動きを止め、ひどい呼吸困難に陥っている慶に、彼がどうすればいいのかたずねた。
「何か袋、持ってきて」
 よくまわらない舌をなんとか動かした。すぐに差し出されたコンビニの袋を、麻痺した手で受け取った。
 なりふりかまっている余裕なく、袋を口もとにあてがって息をすると、早く浅かった呼吸が、だんだん元通りになってきた。
 震える手をもう片方の手でこすって、なくした感覚を取り戻そうとしながら、水をくれるようにNに頼んだ。
 水を飲むと、だいぶ落ち着いた。
「ありがとう、おどろかせて、ごめん」
 慶はぽつりと言った。
「どうしたんだ」
「過換気症候群っていう、発作。息を吸いこみすぎて二酸化炭素が足りなくなるから、こうして自分の吐いた空気を吸って、血液を中和させるの」
「冷静だな」
「前にも、なったことあるから」
 気遣わしげな色に瞳を染めた彼が、しばらくして口をひらいた。
「僕も、ここに住むよ」
「は?」
「だって、ひとりでいるときにまたこんなことがあったらどうするんだ」
「だいじょうぶだよ、対処法わかってるし、ひとりでいい。死ぬようなものじゃないんだし」
 現に、彼がいてもいなくても、たいして変わりはなかった。心細さは感じずにすんだという利点はあったが、あえて挙げればそれくらいだ。醜態を他人に見られるほうがよほど苦しい。
 夜中に、声を限りに叫んでも通報されずにすむ都会の喧騒はありがたいと慶は思った。



photo:mizutama

20051022, 20080217
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