ふるふる図書館


番外編2 パラダイス・ロスト paradise lost



「おにいちゃん……おしっこ」
「そうか早く行って来な」
「ついてきてぇ……おねがい」
 夜中ひとりでトイレに行くのが怖くて、恥じらいと、俺にそっけなくされた困惑と焦燥をにじませて、もじもじしながら懇願していた弟の様子がふと脳裏によみがえった。
 だから、「トイレか?」などと自然にさらりと口をついて出てしまったのだ。
「ちがうよー! もー! ソウちゃんの意地悪」
 琴子が怒るのも当然だ。パジャマ姿で赤くなって遠慮がちにためらいがちにおねだりするさまがいくらあのときの弟と共通していたからといって、若い女の子を幼い男児と同一視するものではない。第一ここは琴子の部屋だ。
「ごめんごめん」
 琴子を抱き寄せた。こういう行為は弟にはしていないはずだよなと記憶をたどる。そんなに仲のよい兄弟ではなかった。弟は少しばかり年が離れていて、少しどころでなくおつむのねじがゆるいから、あまり相手にせず距離を置いていた。疎外感をおぼえていたのか弟のほうも俺に近づかなかったし、わがままを言うこともめったになかった。トイレに一緒に行ってほしいと言ったのも、一度か二度ではなかったか。
「ソウちゃん……」
 甘えるように琴子が俺にしがみついてくる。思い出した。弟も小さいころはこんなふうに俺にくっついてきていた。わざわざ振り払うほど邪険にもしていなかった。俺が中学生ともなると、こんなスキンシップはなくなったが。
 琴子をベッドに仰向けにし、その顔に顔を近づけた。琴子はうっとりとまぶたを閉じた。いや、ちがう。弟とは近年会話もするようになってきた。からかってやろうとして、ちょうど今みたいな体勢で襲うまねをしたら、本気で怯えてた、あいつ。あれは傑作だった。
「ぷ、くくっ」
「なによ! なんで笑ってるの?!」
 すっかりつむじを曲げてしまった琴子の不機嫌を忘れさせるためには、しかしさほど努力を必要としなかった。いともあっけなく、たちまちとろけてしまうのだ。

「桜田って、脳みそがほんわかした女の子ばかり彼女に選ぶんだな」
 おそらく、昼間友人から受けた指摘が原因なのだろう、琴子と弟をオーバーラップさせてしまったのは。むろん、ベッドの中では弟のことはきれいさっぱり意識から抜け落ちていた。これは、琴子が弟の代用では断じてないことの証明のはずだ。
 歴代の彼女と弟が似ているなど、発想すらしなかった。だいたい、あいつほど料理の上手な女の子にいまだかつて出会ったこともない。
「理知的な女が似合いそうなのになあ」
 こうも言われた。自分でもそう思う。頭のいい人間と話すのは、脳が活性化する心地がする。愚鈍な者と過ごすメリットなど、比較するべくもない。ゆえに好みであるわけがない。そのはずなのだが。
 なのだが……。どういうことなのだろうか。
 まあ、仕方がない。
 馬鹿のお守りは慣れているのだ。五歳のときから。
 両親は、俺の交際相手を知ったら失望するだろうか。いや、どんな子と付き合っていたって、全面的に俺を信じるかもしれない。それもいかがなものかと思うが。
「桜田さあ、金髪で長髪でピアスにカラーコンタクトなんかしてたから、軽い女の子が寄ってくるんじゃないのか?」
 先の友人の仮説である。堅くて真面目な女の子は近寄りがたいであろう風体は、クレバーな女の子を遠ざけるデメリットをもたらしたくせに、親族一同からの「宋梓君は頭がよくて優秀で、将来が本当に楽しみね」というプレッシャーからの回避には至らなかった。「エリート街道まっしぐらなんだから、学生のうちだけでも、ちょっと遊んでおかないと」という好意的な解釈に落ち着いてしまったらしい。なかなかにうまくいかないものである。せめて弟が出来がよければ、彼らの期待も分散したものを。
「ねえ、ソウちゃん。金髪、もったいなかったね、やめちゃうの」
 並んで横たわっていた琴子が、今ではありふれたスタイルになった俺の髪を、ネイルアートを施した指で梳いた。
「もう社会人だからな」
「きれいだったのになあ。今のソウちゃんも素敵だけどぉ。ピアス穴もふさいじゃうんでしょう? ピアスはいらなくなっちゃうの」
「もう使わないからね」

「お帰り、兄貴。デートだったのか」
 自宅に着くと、弟がひとりリビングでテレビをぼけっと見ていた。デートとは、映画だの遊園地だの食事だのに行く健全な行為としか認識していないに相違ない。清いものだ。
「公葵はピアスあけないのか?」
 唐突に聞くと、びっくりしたように瞬きをした。
「別に。痛そーだし。絶対似合わねーし」
「あけるんだったら、俺のやろうかと思ったんだけど」
「えっ。欲しい」
「つけないんだろ」
「でも兄貴のって一点ものじゃん!」
「もう彼女に、あげるって言った」
「そうか。じゃあいいよ」
 あっさりと引き下がる。昔から俺が嘘をついても手放しに信じてはいたが、それにしても淡白で欲に乏しい仙人みたいなやつだ。巷で言うところの草食系か?
 弟がまだ小さかったころ、「100万回生きたねこ」という絵本を読んでやったことがある。弟は別段感銘を受けた様子もなかった。なぜこの話のよさがわからないのだと俺はひどくいらだちをおぼえた。弟が理解できなかったのも無理はない、結局のところ、弟は幸せだからなのだ。納得できる自由や愛情を得ている幼児には、あの物語に共鳴などできない。
 白い猫という、生涯の伴侶を得た主人公の猫。琴子は、琴子の前に交際していた女の子たちは、琴子の後に交際するであろう女の子たちは、俺の白い猫たりうるだろうか。彼女たちはみんな大切な存在だ。傷つけたり悲しませたり悩ませたりしたくない。心からそう思っているのだが。
 琴子にせがまれたが、ピアスを譲る気持ちはなかなか湧いてこなかった。もし譲ったとして、別れた後に捨てられてしまったとしたら忍びない。優れたものがこの世から消えるのはあまりに惜しい。しかし後生大事に持っていられるのも困るのだ。
 だったらこいつにくれてしまえ全部。
 無欲の勝利。
 ほら、やっぱり弟は幸せ者だ。




***
お兄ちゃんの恋愛話をお届けしました。
このキャラクターでリクエストをいただけるとは予想外でしたので、とってもうれしかったです。
キャリー★さん、リクエストありがとうございました!
ほんのりブラコンっぽいですが、禁断のあれこれはありませんのでご安心を!

20090810
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