ふるふる図書館


第26話  ジャスト・ディザイア just desire 5



 木下さんとはもともと常にシフトが一緒になるわけでもなかった。それに加えて、俺は学生生活で、木下さんは引継ぎや本社への出勤などで多忙になったことで、顔を合わせない日が増えていった。たまに会っても木下さんはいつもどおりののほほんぶりだ。つまりは、こっちが笑わなくなったら負けなんだ。
 それでも、ふうとためいきがもれてしまった。学校帰りの電車の中。この時間帯のこの路線はほぼ貸切状態なせいか、とろとろ居眠りしつつ気が緩んでしまったようだ。
「どーした? 悩みごとか?」
 突然、隣からよく知った声がかけられて俺は飛び上がりそうになった。ガラ空きなのに、なんでこの人俺の横に座ってるのかとほんのり疑問には思っていたけど、まさか。
「なんで、ここにいるんですか」
 かえりみた先にいた木下さんは、「今、電車通勤だから。車はこないだ売った」とけろりとこたえた。
 ああ、手放したのか。思い出が詰まっているのに、と感傷的になるのは俺だけか。木下さんの持ちものなんだから、俺に文句を言う筋合いはないけど。でも。
「さびしい、です」
 つい言ってしまった。はっと気づいてあわてて補足する。
「何度も乗せてもらったし、俺気に入ってたし」
 ゆえに。木下さんがいなくなることが、って意味ではない。木下さんが、俺が望めばいつでも乗せてくれる約束を忘れてしまってるかもしれないことが、って意味でもない。すっかり俺に見向きもせずに、ここでの生活を終了させる手筈を着々と進めていることが、って意味なんかでもない。
「ふうん、あーいうのがいいのか。じゃあ次も似たようなヤツにしようかなあ」
 木下さんがのんびりと笑う。
「いや、別に俺の趣味で決めなくても」
「へ? なんで? 俺の次にお前がいちばんたくさん乗るはずなんだけど? だったらお前の好みに合わせたほうがいいじゃん。俺は特にこだわりないし」
「つ、ぎがあるんですか」
 木下さんはきょとんとした。
「え、あるだろ? しばらく、お前のアッシー君できないけど。帰ってきたらいくらでも」
「……はい」
 俺は小さくうなずいた。それだけ、聞ければ充分だ。
 徹頭徹尾つかみどころがない。俺がよく知ってるのは、そういう木下さんだった。そういうところに惹かれていたはずだと思う(たぶん)。
「desire」の本来の意味は、「星を観察すること」らしい。きらきらして手が届きそうで届かなくて、近そうで遠くて、世間知らずでちっとも仕事ができず人付き合いすらおぼつかなかった暗闇にいる俺を照らして進む方向を示してくれて、なにでできてるのかわかんない、星みたいな人を見つめているのがほんとに楽しかった。なにを考えてるのかさっぱり読めなくても、心をひっかきまわされて振り回されても。ていうか、謎で不可解だからこそわくわくしたのかもしれない。
 俺とふたりきりのときにかもしている、胸がこそばゆくなる糖度の高い空気は浮かれた気持ちになるけれど、いいことなのかわからない。甘えて甘やかして体に触れたり触れられたり、単にそういう行為がしたいだけなんじゃないか。そういうことをさせてくれる人だからそばにいたいんじゃないか。だったら木下さんじゃなくてもいいと思うんじゃないか。特別な触れ合いがなくなったら、木下さんのことがどうでもよくなってしまうんじゃないか。
 しばらく木下さんと距離を取ってじっくり考えたほうがいいんじゃないか。
 えろい意味でのdesireでなくて、もとの意味でのdesireのほうが、木下さんのことをずっと想っていられて、ずっとこんな関係でいられるんじゃないか。
「でさ。なんでためいきついてたの」
 話題がもとに戻った。遠慮しないで言うてみ、と重ねてせっつかれる。
「うう。それを俺に言わせますか」
 ほんの少し前に、半泣きで木下さんを空港に追いかけてった俺に。
「でもあれです、ドラえもんが未来に帰るとき、のび太はひとりでも大丈夫ってジャイアンに立ち向かった末に粘り勝ちするじゃないですか。俺も同じですよ、木下さんがいなくても頼らずに生きていけます」
「あっは、俺はドラえもんか。その発想はなかった」
 俺は心底真面目に説明したのに、木下さんはケラケラ笑い出し、ふと真顔になった。
「でも俺は、お前が俺のいないとこでボコられてたらすんげーいやだわ。無理せんでいいから逃げてほしいわ」
「ううーん。それじゃあ漫画になりませんね」
「そりゃそーだ。俺たちは現実を生きてんだから」
「はい」
 そう、俺の人生は漫画でもアニメでも小説でも映画でもドラマでもないんだ。別離の際の号泣だとか、切ない感傷だとか、なくていいんだ。だいいち似合わねーもんな。
 そんなことを考えて、ひとり納得していたら。
「あっ」
 急に木下さんが声を上げる。どうしたのか、と振り返った瞬間、ホイップクリーム状の感触が、口にコンマ数秒の早業で当たった。
「隙ありー♪ じゃね、ばいばい」
 してやったりと、いたずらっ子みたいにへらへら勝ち誇る。ったくドラマみたいなことしやがって!
 居たたまれず、ちょうど停まった俺の乗換え駅であわてて降りる。赤い顔と、目頭からにじみ出そうな水滴をごまかすべく下を向いた(さもないと木下さんにあらぬ嫌疑がかけられそうだ)。フィクションでよく見る、別れの前に思い出のためとかいって一夜をともに過ごす人たちの心境が俺にはさっぱりわからない。そんなの、ますます離れがたくなってつらくなるだけじゃんか。
 ぽろろーん、ぽろろろろーん、聞き慣れた物悲しい発車メロディが響く。俺は我に返って視線を上げた。戸口に立って、無邪気に笑いながらぱたぱた手を振る木下さんがいる。煌々と電灯がついているのに薄暗さを感じるホームで、木下さんのいる車内はひたすら明るくまばゆく見えた。
「一番線、ドアが閉まります。ご注意ください」と放送が入る。あ、行っちゃう。衝動的にまた乗りたくなるのを、その隣に飛びこみたくなるのを、一緒についていきたくなるのを、ぐっとこらえた。そんなことをしたら、確実に自分の首を締める。
 だから俺も、踏みとどまって手を振った。車両が視野から消えていくまで。

20150919
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