第4話 プラス・マイナス・ゼロ plus minus zero 1
頭の芯が少しくらっとする。お湯をかぶりすぎてのぼせたらしい。ぼんやりしながら浴室のドアを開けたらそこにいたのは木下さん。
「うわっ」
大あわてで戸を閉めた。コンマ数秒、電光石火の早業、ほとんど脊髄反射。ひょっとして木下さんの鼻先をこすったかもしんないが、そんなの気にしちゃおれん。
「なんですかっそんなところで!」
無防備なところへ不意打ちされた焦りも手伝ってあたふたわめくも木下さん、いつものペースを泰然自若とキープしている。
「お前さっき大声上げてなかった? なんかあったのかって心配したんだぞ。いくら呼びかけても返事しねーし」
あ。言われてみればそのとおりだ。俺はそろそろと扉をひらいて、顔だけそっとのぞかせた。
「すみません。ぶつからなかったですか?」
「俺は平気だけど。お前、どうしたの?」
「俺も、どうもしてないですっ。あがりますから、木下さんは戻ってください」
懸念の色を浮かべる瞳が猛烈に照れくさくて、さっさと追っ払ってしまった。
悪いことしたかな。いや、あんなとこに立ってるほうに原因がっ。いやいや、それは俺のためであって……。俺の両肩で、ちっさい天使の公葵君とちっさい悪魔の公葵君がぴーちくぱーちく言い争い。その舌戦を断ち切るように、バスタオルでごしごしと体を拭いてわしわしと髪も拭いた。
バスローブを羽織って出た。ソファでごろごろしている木下さんのわきにすとんと腰をおろす。
「ごめんなさい」
俺は回りくどいことはできねーから、いつでもフルスロットル、小細工抜きの直球勝負だ。ここはびしっと男らしくっ。
「どした?」
……と思ったけど、改めて聞かれると答えづらいな。そんな間近で、じっと目をのぞきこまれると特に。
「ん、いろいろ」
居心地悪くてもじもじうつむいてしまう。ええい、どこがびしっと男らしいんだ俺よ。
木下さんの指が、俺の首筋に張りついた髪をかきあげた。
「すごくいい匂いがするな」
「そりゃあ、きっと高級シャンプーなのかも」
「ちゃんと水気を切って来いよな。風邪ひくだろ」
「あ、はい」
髪から水滴がぽたぽたしたたっている。木下さんが笑って俺の手首を取って立ち上がった。
「乾かしてやるよ」
「えっ?」
「お前はお誕生日さまなんだからサービスしちゃるよ」
「ひとりでできますよ」
「けっこううまいぞ俺。こう見えても達人だから。さーさー、任せるドン」
太鼓の達人かよ。
あんまりむげに断るのもとおたおたしているうちに、木下さんに洗面所に連れて行かれた。備えつけの藤椅子に腰かけさせられて、ドライヤーを当てられる。
風が髪をそよがせる。髪から水分が抜けて、さらさらと軽くなっていく。木下さんの手が何度も髪をすくう。丹念に丹念に。あ、やばい気持ちいい。ふわふわとろとろ、うっとりしそう。
髪によさそうなローションとおぼしきものをつけられて、頭皮と肩をマッサージされて、
「終わったドン」
太鼓の達人の声で、はっとまぶたを開けた。無意識のうちにとろんと目を閉じていたらしい。まさかよだれなんかたらしてねーだろな。忸怩たる思いで鏡に視線を投げた。
「あれ?」
見慣れたはずの自分の姿が妙にちがう。そっと頭に手を当てると、触り心地がまったく変化していた。
「ほら言ったろ、俺はうまいんだって。そのほうが可愛いぞ。くりくりしてて」
「くりくり?」
「どんぐりみてーだ」
「どんぐり?」
いつも適当にドライヤーで乾かされていた俺の髪が、素直にまっすぐふんわりと俺の顔を包んでいる。電灯に照らされて光を跳ね返している。これがいわゆるエンジェルリングか。可愛いといわれるのはほんっとうに、まったくもって、心の奥底から不本意なのだが……小学生だこれ。どうしてくれんだ。