第20話 ハートブレイクはおちこまない。1
今日のバイトは遅番だ。午後からだから、まだまだ時間はたっぷりある。でもまっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
涼平は今ごろ予備校だな。ああ、太陽がまぶしい。暑いしのどがかわくし、なにより腹が減った。木下家の朝飯を食いはぐったせいだ。
そうだ、また七瀬さんのところに行こう。もう店はあいてるはずだ。なにか食べて、今度こそ七瀬さんと話をしよう。よし決めた。
それじゃ、ごゆっくり。
木下さんの奥さんがそう言って遠ざかっていったとき、俺はひたすら唖然呆然としていたので会釈するのが精いっぱいだった。
そうか……。木下さんって結婚してたんだ。なんか意外だけど、木下さんのキャラに合わないけど、年齢的には不自然じゃない。この一軒家も、家庭を築くってんで建てたものなんだな。
なんだ。そうだったんだ。
俺、馬鹿みたいだったな。いや実際馬鹿なんだけどさ、「みたい」じゃなくて。
だけど、うん、すっげーすがすがしい気持ちだ。波風立たない穏やかな湖のよーに、心が静かに澄んでいる。
もう、木下さんの言動に振りまわされたり、動揺したり、翻弄されたりしなくて済むんだ。なごやかに落ち着いて過ごせるんだな。
悟りをひらくってこんな境地なのかもしんない。
ああ、なんてすっきりと晴れやかなんだ。既婚者だって知れてよかった。
そうだよな、今までの過剰なまでのスキンシップはみんな、深い意味なんてなかったんだ。だって涼平にまであんなことしてたし。俺だけが特別なわけじゃない。単なるおふざけとか、じゃれ合いだとか、挨拶だとかそんなのだったんだ。当然だよな、七こも下で未成年で、なんたって男だもんな。
ひとり幾度も深く深くうなずいた。
あ。
俺が寝かせてもらってたベッド、あれ、夫婦のものじゃないのか? 俺が占領しちゃったなんて申し訳なかった。奥さんにもひとことお礼をしなくちゃいけない。
俺はその足で、廊下を進んだ。
キッチンとおぼしき部屋から、木下さんの声が聞こえた。奥さんと話をしているらしかった。
「うん、俺、馬鹿は嫌い」
へっ?
俺はその場に立ち竦んだ。
馬鹿って俺のことじゃん。
「卑屈なやつも勘弁。『俺はどうせこうだから』ってすぐに言うの。どうにかならんのかね」
またまた俺のことじゃん! 「俺は馬鹿ですから」って、いつも口にしてる……。
俺、木下さんに嫌われてたんだ。全然気づかなかった。
面と向かってはっきり言ってくれればよかった。ちゃんと嫌ってくれればよかったのに。こんなふうに陰で奥さんに言うなんて。
さすがにこれはきた。ぐさっと。
今までの態度は俺への気遣いだった? ガキだし、部下だし、後輩だから?
誕生日に誘ってくれたり、仕事で面倒みてくれたり、家に泊めて朝飯の用意までしてくれたりするのは、親切心?
笑いかけて話しかけてくれたのも、優しさと思いやり?
ずいぶん無理させてたんだな。俺のために。
今日はこのまま帰ろう。
俺は朝目がさめた部屋に戻り、荷物をまとめた。ベルトに腕時計、イヤーカフも身につけた。
黙っていなくなるのはあまりにも礼儀知らずだから、書き置きを残すことにした。
なにか紙はないか持ち物を漁り、財布の中にあったレシートの裏を使った。
「お世話になりました。どうもありがとうございました。用があるので帰ります。桜田」
木下さんは俺が風呂に入ってると思っているだろうから、置き手紙を脱衣所に置き、俺は玄関に向かった。
鍵をあけっぱなしで出て行くのは気がひけた。だからといって挨拶していくのは間抜けだ。木下さんは不審に思うだろうしひきとめてくれるだろう。元の木阿弥だ。よけいな騒動を起こさないのがこの作戦の肝なんだから。
そうっとドアをあけ、こっそり出て行く。抜き足差し足忍び足、のドリフのコントだっていけるぞこれなら。
さっぱり土地勘はなかったが、道行く人のあとについてぼんやり歩いていたら運よく駅に着いた。
そんないきさつで、俺は「ハーツイーズ」に二日連続で足を運ぶこととなったのだった。