ふるふる図書館


万華鏡



 ――はつ秋の夕焼けの中、こなごなに散る少女時代、夏との別離。

 見渡す限り金色の……。
 あれは夕日に透けるすすきの穂でしょうか。
 かぐわしく散りしく金木犀の花でしょうか。
 彼方まで続く枯野でしょうか。
 わたしたち、ふたりでどこまでも歩いて行けると思っていました。
 こんな輝かしい道を、尽きるところを知らず、はるか遠くまで。
 しっかりと手をつないで。
 それなのに、あの子はいなくなってしまいました。
 本来なら、先に死ぬのはわたしのはずだったのです。
 長期休暇をすごした避暑地でめぐり会った同い年の少女は、健康そのものでした、わたしとまるでちがって。
 そう、まばゆい夏の太陽そのままの。
 わたしにはそれがときとしてねたましく、いじわるをしたり身勝手にふるまったりもしました。
 それでもあの子はわたしのそばにいつもいました。
 別れてめいめいの家へ帰る前日、わたしは言いました。
「すぐにわたしのことなど忘れてしまうのでしょう。貴女には自由に走れる脚があるのだもの。」
 あの子は首を振ってわたしの手を握りしめました。
「忘れないわ。たくさん手紙を書くわ。約束する。」
「それなら、貴女のその瞳を頂戴。」
 わたしが片目を失明したのは、幼いころでした。
 あの子の右の眼は、蛍石のような、南の海のような、ふしぎなみどりいろをしていました。
 それがほしいとわたしは駄々をこねたのです。
「ええわかったわ。貴女にあげる。」
「嘘よ。そんなことはできっこないくせに。いいかげんなことを口にしないで。」
 わたしは背中を向けて、あの子の前を去りました。
 あの子からの便りは一通も来ませんでした。
 かわりにわたしのもとに届いたのは、訃報でした。
 事故死を告げる一葉のはがきでした。
 あの子は、約束を破ったのです。

 嘘つき。嘘つき。嘘つき。
 守れない誓いなら、はじめから立てないで。
 わたしから離れてゆくなら、はじめから近づかないで。

 雨が歌うような音と、からからと澄んだ音に、わたしははっとまぶたを開けました。
 とたんに、永遠にまで広がるかに見えた金色の光景は消え失せました。
 寝椅子でまどろんでいたわたしの眼を、忌々しいほどの青さが射抜きました。
 窓ごしに広がる空は、しかしすでに、夏のそれではありませんでした。
 夏のふりをした、まやかし。にせもの。
 両腕に顔を埋めて、わたしはまた寝椅子に突っ伏してしまいました。
 からからと奏でられる涼しいひびき。
 あれは、あの子と一緒に飲んだラムネの壜に閉じこめられた硝子玉。
 わたしは、わたしの命を削ってゆくような暑さがたいへん苦手でした。
 けれども、その音を耳にすると、さわやかな気持ちになり心なぐさめられたものでした。
 あの子がさしだしてくれた、うすみどりの冷たさ。
「飲み物を持ってきたわよ。」
 わたしの枕元にすえられた円卓に、お姉さまが銀のおぼんを置きました。
 すきとおった洋盃には、氷を浮かべたラムネがぱちぱちとかすかな音を立てていました。
 雨のしずくが地に落ちてはじけるときの音のような。
 蓄音機に乗せて針を落とした古びたドーナツ盤のような。
 ゆったりとしたワルツ。
 音楽に合わせて、サンルームで、あの子とふたりで手を取り合ってくるくるまわった雨の日。
「要らないわ。それは夏の飲み物ですもの。」
 こたえるわたしの口ぶりは、病弱ゆえにわがままに育った妹らしい、子供っぽく権高なものではなくて。
 疲れきった大人のように低いかすれを帯びていました。
 自分がそんな声を出せることに、少しだけおどろきました。
 ものうく上げた視線の先に、麦わら帽子がかけられていました。
 あの子とそろいであつらえた帽子の、蘇芳いろのリボンも褪せていました。
 もう、帽子も片づけなくてはいけない、とわたしは思いました。

 放課後の、誰もいない校舎の屋上にわたしは立ちました。
 非常階段はらせんのかたち。
 いちばん上から見下ろすと、すっと吸いこまれていきそう。
 巨大な巻貝の中をのぞきこんでいるような気分になります。
 この世の終わりみたいに、空は真っ赤に燃えていました。
 わたしのセーラー服の襟と紺いろのスカーフを、ひややかな風がはためかせました。
 かばんから、ラムネ壜を取り出しました。
 夏の思い出を封じこめた壜を天に掲げると、ひとつ呼吸して、手を放しました。
 みどりいろは、わたしのかわりに遠いらせんの果てめがけて落ちていきます。
 ほどなく、底でこなごなに砕けました。
 きらきらとまきちらされる、数えきれないかけら。
 わたしは息をのみました。
 その中に、一瞬だけ、見つけたのです。
 あの子の右の瞳を。
 夢中で階段を駆け下りました。
 わたしの脚が、実は、あの子のように速く走れることに気づく余裕もなく。
 息を切らしてわたしは残骸に手をのばしました。
 みどりいろの、おびただしい硝子の破片。
 だけどそこに、目的のものを探し出すことはできなくて。
 わたしは、黄昏に塗られたその場にひざまずいて、激しく泣きじゃくりました。
 あの子は約束を守ってくれたのに。
 わたしは、ほんとうに、あの子を失ってしまったのです。

 ひとつの万華鏡が、わたしの机のひきだしの奥にそっとしまいこまれました。
 お姉さまにも秘密です。
 鍵をかけて、だいじに閉じこめておかなくてはなりません。
 存在を知っているのはわたしひとり。
 中に入っているのは、指先を血に染めながら拾い上げた、みどりの瞳のたくさんのかけら。
 万華鏡をのぞきこむたびに、幾千、幾万ものあの子の眼が、いつでも見つめ返してくれるのです。
 わたしを。わたしだけを。

20070224
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