ふるふる図書館


最終話



 彼と過ごした学園を、僕は卒業することができなかった。
 父が倒れたという知らせが入ったのだ。
 その一報は僕を青ざめさせたが、ぎっくり腰とわかってほっと胸をなでおろした。しかし、命に別状ないとはいえしばらく働けなくなってしまった父の面倒をみなくてはならなくなったし、良家の子弟ばかりが集う学園にかなり無理して僕を入学させてくれた家族の経済状況もわかっていたから、僕は実家に戻るよりなかった。
 実家の近くの学校には、春から編入する手続きを取った。学園を去る日は大勢が校門で見送ってくれた。僕を慕ってくれていたあの下級生は泣いていた。
 でも、彼は。
 あの優等生らしい笑顔で。優等生らしいあいさつしかしなかったのだ。やたらあっさりとした別れだった。
 僕の転校を知ってからずっと、彼はまったくいつもどおりの態度だった。僕がいなくなっても屁とも思わないんじゃないのか。彼の性分からして、今後連絡をよこすことはないだろう。これからいっさいかかわることもないだろう。ぼんやりと、汽車の窓の外を流れていく景色を眺めながら考えた。
 現れては消えて、また現れる、春の気配を隠した山と、木々と、川。学園はそうとう人里はなれた場所にあるのだ。
 鈍行は何時間もかけて進む。学園生活はまだ、思い出として胸の奥から取り出せるほど結晶化していなかった。持ってきた本を読む気になれず、窓にもたれて居眠りしているうちに、乗換え駅に着いた。
 荷物を抱えて汽車を降り、すでに停車していた別の汽車にゆっくり向かった。のどかな地方だから、発車するまでの時間はたっぷりあった。
 車両に足をかけ、乗りこんだその瞬間、
「祖師谷!」
 誰かに呼ばれて振り返った。頬に血の色を上らせ、人影まばらなプラットホームを息せき切って駆けてくるのは、まぎれもなく彼だった。
「どうして……?」
 なぜここにいるのか。どうやってここにいるのか。おどろいて入口から動けないでいるうちに、彼は僕に近づいた。乱れた呼吸を整えながら僕を見据えた。
 あの、誰もが憧れる品行方正で理知的な表情でもなく。僕をおもちゃにしているときの意地悪く憎々しい表情でもなく。寝ぼけたときの甘え全開の可愛らしい表情でもなく。
 眉を寄せ、せっぱつまったような色を浮かべていた。そんなことは初めてだった。
「わざわざ、ここまで来てくれたの?」
 僕の問いかけにこたえず、彼は右手を突き出した。
「握手を」
 胸がふいに疼痛をおぼえた。あんなことやこんなこともしておいて、されておいて、この期に及んで握手なのか。それでいいの。それだけでいいの?
 僕は無言で、彼のしなやかな手を握りしめた。
 どのくらいそうしていたのだろう。僕がもし手をひっぱったら。彼のほっそりした体はホームをかるがる越えて、僕の腕の中にすっぽり収まったことだろう。そのまま汽車の扉が閉まったら。学園を後にして彼とふたり遠くに行けたことだろう。
 発車ベルが僕の意識を現実に返した。手のひらをそっとひらいた。それでもふたりの指先だけは数秒間、わかちがたく触れ合ったままで。
 ベルが鳴り終え、僕と彼の間を、ドアが隔てた。汽車が名残惜しげに動き出し、ホームに立ち尽くした彼が次第に小さくなっていくのを僕はじっと見ていた。彼もまた、きっと僕を見つめ続けていたのだろう。
 それが、生徒会長との最後だった。

 司書教諭が退職して空きがあるから働いてみないか。学園からじきじきに連絡がきたのは、あの日から数年もが経過してからだった。資格を取ったものの、なかなか働き口がなく困っていた僕は、一も二もなく飛びついた。
 もう一度あの学園を訪れることになるとは想像もしていなかった。
 やわらかい春の陽射しがふりそそぐ学び舎のたたずまいは、記憶のままだった。わずかな期間しか在籍していなかったけれど、鮮烈に当時の情景がよみがえる。
 しばし浸っていたかったが、理事長に会うのが先だ。生徒だったときは、校長は知っていても理事長など誰だかさっぱりわからなかった。もちろん理事長室がどこにあるのか気にとめたこともなかった。なんとか探し当て、重厚なドアをノックする。
 どうぞ、という返事を待って入室した。どっしりと高級そうなデスクの向こうに、理事長とおぼしき人物は窓を背にして立っていた。逆光で姿がよく見えない相手に、あたりさわりのない口上を述べ、よろしくお願いいたしますと頭を下げた。
 くすくすとかろやかで愉快そうな笑い声がして、僕は怪訝な心持ちで顔を上げる。
「ずいぶんしゃちほこばっているんだな」
 デスクを迂回して、僕の前までゆったりと歩を進めるその人は。
 優雅な身のこなし。見る者の心をわしづかみにする端整な面差し。やわらかな声音。
 忘れようとしても忘れられない。
「生徒、会長……?」
「今は理事長」
「な、なんで」
「僕は前理事長の息子だ。校内で知らなかったのは貴様くらいだろうよ。そういうことにはあきれを通り越して感心するほど疎かったものな」
「そう、なのか?」
 僕にからんできた上級生をほほえみひとつで追っ払った彼。事情がわかれば納得だ。あの別れの日だって、何か財力なり権力なりを使えば僕の汽車に追いつくことができたんだろう。
「僕を特別視せずに接してきたのも貴様ただひとりだけだった」
 眠りながら泣いていた彼は、とてつもない孤独を抱えていたのだろうか。人に寝顔を見せたくないとささやいた彼は、誰にも心を許していなかったのだろうか。
「そして看過できないことに、だ。貴様は僕の弱みを把握している。そんな者を、僕が野放しにしておくはずがないだろう?」
 彼は指をのばして、僕の頬をすうっとなでた。連動して、ぞくぞくと背筋を冷たいものが下りていく。僕の様子に満悦したのか、しんから楽しげににっこりした。小動物をなぶる猛獣じみた笑顔だ。
「もう離さない。僕から逃げられると思うなよ。まだ若すぎると言う反対派を認めさせるために並々ならない努力をして、このポストを勝ち取ったんだ。ひとえに貴様の口封じのためにな」
 なんということだ。僕の受難はまだまだ終わることはないのか。
 致し方ない、僕は吐息をひとつついて腹をくくった。いや、自暴自棄というものかもしれない。
「ああ、ああもう、わかりましたよ、おはようからおやすみまで僕を監視したいんだな。つまりは僕なしでは一日をはじめることも終えることもできない、そんな生活をまたご所望なんだろう、お付き合いしてさしあげますよ、理事長様」
 彼の表情が、花をぱっと散らしたように明るんだ。
 というのは一瞬の僕の錯覚だったらしい。
「調子に乗るな、この脳足りんが」
 彼はけんもほろろに言い放ち、つんと背中を向けた。
「僕はここの理事長で、貴様は一介の新任教員だ。互いの立場をわきまえてるのか?」
 たしかにそのとおりだ。学生だったあのころとはちがうのだ。格も地位も住居も上下関係も。
 発言を正論ではねつけられてぐうの音も出ず神妙にしている僕をかえりみないまま、ぷりぷりした口調で彼が語を継ぐ。
「だが、脳足りんの貴様が、哀れなくらい貧相で回転が遅くてとろくてどんくさいぼんくらおつむをふりしぼってせっかく提案したんだから、そうしてやっても……いい」
 最後は小声になった彼の、つややかな花びらみたいな耳たぶが僕の視線の先でみるみるうちに真っ赤に火照り、さっきのはやっぱり見間違いではなかったことを悟ったのだった。

20150209
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