第二十九章 待ち望むすべての投棄
photo:mizutama
「そろそろ、帰らないと」
慶は、右に顔を向けて尋をうながした。
「ケイはこの先どうするんだ?」
尋はエンジンキーに手をのばそうとせず、たずねかけた。車内は暗く、陰がばっさりと尋の表情を慶の目から奪い去っていた。
「これからって? 東京に帰るよ。明日」
「仕事も続けていくのか?」
慶はうなずいた。
だってここには、慶を受け入れる場所はない。
やりたい仕事も、向いている仕事もない。
だからこれからも東京で暮らしていく。
友人と体を重ね合わせながら同居をして、夜は水商売で働いて。
こんな生活を、いつまでも続けていけるとは思えない。
ここから慶は逃げている。天国ではない場所から。しかし逃げこむ場所もまた楽園ではない。
当たり前のように、Nは慶のからだを求めてくる。
なんでもないことのように、慶はそのことを受け止めて溺れる。
時おりは、気乗りしないこともある。
そのくせほんのちょっと肌に触れられただけで、たちまちあっけなくくずれて、情けなく呼吸を乱し、ばかみたいに喘いで、みっともなく下着を汚す。
そんな自分を慶はどうしようもなく許せなくなる。
ことが終わると、即座に理性に支配されて、胸と鼻の奥がきりきりとしみるように痛む。ふさぎこむと、慶がすぐに眠ってしまうことや体力がないことを知り尽くしている相手はからかうようにたずねる。
「眠くなったのか? 疲れたのか?」
ちがう、そんなのじゃない。ちがうのに、説明などできない。決してわかってもらえない。どんなに話をしても、むなしい。ことばは無効だ。無力。非力で頼りなくて、いつだって途方に暮れている。
Nが慶のことをいちばんに思ってくれているのは知っている。よけいなことを言うのは、間に溝を作るだけだ。
同居をやめたほうがいいのかもしれない。しかし行き場のない彼をほうってしまうわけにもいかない。だからこれ以上どこにも行けない。
できることなら、たったひとつ願いを許されるなら、まだ未来が何色にも染まっていなかったころの、幸福な本棚の前に帰りたい。夢中になってはるか高みに思いを馳せていたあの時代に。かなわない望みだとしても。あのころ、小さな慶のからだは遠くに行くことなどできなかったが、こころは遥か彼方のどこにでもはばたいていけた。今やどこにでも自由に行ける身になったのに、こころが縛られ繋ぎとめられ、どこにも飛べなくなってしまった。
どうして、あの幸福な本棚には戻れないんだろう。いつから戻れなくなってしまったんだろう。どうして、こんな自分になってしまったんだろう。こんな自分になることをどうして知ることができなかったんだろう。
いつか飲んだ毒が潜伏期間を経てゆっくりまわってしまったのなら、それを吐き出してしまいたい、汚染していく毒ごと自分を吐き出してしまいたい。ベッドサイドで毎日脱がれる服ごと理性も感情も捨てて。空っぽになりたい。食いつぶされ食い尽くされ。骨のかけらさえも残されず。そうすれば早く終わることができるだろうか。自分をおしまいにできるだろうか。
きれいでなくて見苦しくて空っぽ。一刻も早く離れたい。この田舎町にそんな気持ちをずっと抱きつづけていた。しかし、それらが向けられるべきなのは、実は慶自身だった。