第十三章 爪を立てる理不尽
収入が絶たれてしまったが、糊口はしのがなくてはいけない。
失業保険で食いつなぎ、しばらく社会との接触を絶った。家から出ることも、人目に触れることも、慶にはずっしりと重かった。世界の外に身をさらけだしたくなかった。
このままではいけないことは当然わかっていた。
アルバイトをするのにまた夜の仕事を選んだのは、親に心配をかけないためにもちゃんとした就職活動をしたかったからだった。
もちろん以前いたところとは別のバーに勤めることにした。あっさり採用されたのは、若さの特権かもしれないと思い、ほっとした。世界を拒絶するくせに、拒絶されれば傷ついてみせるだろう自分の身勝手さに少しあきれもした。
落ち着いたジャズの流れる、おしゃれな店だった。ここなら、前みたいないやな目に遭わないですむだろうと胸をなでおろした。
接客業に従事する人は、つきあいやすく、居心地がよい。彼らはうるさくない程度によく喋るので、聞き役のほうが得意な慶にとっては精神的に楽だった。
精神的にきついときがあっても、バイト仲間と楽しく話をしているうちに気がまぎれた。
ずっと働くつもりはなかったが、充実した毎日だった。
しかし、生活リズムが狂ったせいと寒い日がつづいたのとで、慶は体調を崩してしまった。
「すみません、風邪がひどくなってしまって。休みたいんですが」
電話をしたら、同僚のNが出た。
「そっか、大変だな。ゆっくり休めよ。マスターには言っとくからさ」
「ありがと」
言いかけて、慶は大きく咳きこんだ。慶が一人暮らしだということを承知しているNの気遣う声が、鼓膜へ流れてきた。
「だいじょうぶか? 店終わったら、見舞いに行くよ。何か食べたいものあるか?」
「だいじょうぶだよ。もうなおりかけだし、うつしたら悪いし。それに、明け方雪が降るらしいよ。ほんと、気持ちだけでいいから」
「いや、行くって。それまでおとなしく寝てろよ」
反論を許さず、電話を切られてしまった。
慶はふとんにくるまり、悪いことしたな、と思った。
これまでもしばしば慶の部屋に遊びに来ていたNの記憶を拾い出した。
彼は妙に人懐こく、悪気はないのだろうが変なことを言って慶を困惑させた。
キスしようとか。
「なんでだよ」とか、「好きな人としかしないからだめ」とか、慶が言葉を尽くして断っても「いいじゃないか、しようよ」としつこく食い下がってきて、しまいにはけんかになって帰ってしまったことがある。
なぜ機嫌をそこまで損ねられなければならないのか、まったくわけがわからない、怒りたいのはむしろ慶のほうだった。こんなしうちは理不尽だと思った。
もう誰にも傷つけられたくなかった。壊されるくらいなら、こっちから壊してやりたかった。
彼が去り、ひとり取り残された部屋で、猛烈にやりきれない思いが噴出し、絨毯をかきむしり、頭髪をかきみだしながら大声で喚いた。のどもつぶれよとばかりに。息ができずに卒倒してしまえとばかりに。
自分もこんな獣みたいな絶叫ができるんだなと他人事のように聞いている慶が、隣で泣き叫ぶ慶を見下ろしていた。
あの、Iとのはじめての夜に現れて以来、ことあるごとに顔を出す、もうひとりの慶。Aとベッドの中にいるときも、気持ちよくもないくせにどうしてしらじらしい演技をするのだと冷たく問いかけては、慶を我に返そうとする。
喚いているこのときもまた、うるさい、近所迷惑になるから早く静かにしろと慶を冷ややかに宥めにかかった。
だからはじまったのと同じ唐突さで、慶はすばやく口と悲鳴を閉ざした。
もうひとりのあの慶がいる限り、何かに夢中になることはないのだろう。おぼれることも、虜になることも、きっと。
まともでない慶、精神のバランスをとるために生まれた、まともすぎてかえってまともでない慶。
どっちにしてもまともでないんだ、自分は。すこし狂って、おかしくなっているんだ。
あんな、制御できない自分が出てくるのだから。
そうか、病気なんだ。病気にかかっているんだ。ずっと前から。
だって自分は至ってふつうなんだから。どこもまわりの人と変わったところなんてないんだから。
photo:mizutama