桜
あなたに桜のようだと言われたのは遠い日の話。
あなたの言うとおり桜になれればよかった。
ゆるぎなく堂々と大地に張る根。
風に乗り潔く空へ踊る花吹雪。
やさしく降りしきりあなたを包みこむ存在になりたかったけれどそれはとうとうかなうことがなかった。
変わったのはあなたの心だろうか季節だろうか。
あなたはほかのものはほんとうによく見ていたのに。
いちばん見てほしいものはまるで眼中になかった。
眼中にないことに気づきすらしなかった。
できるかぎりあなたと同じものを瞳に映したかった。
あなたのまなざしをとらえることはできなくなった。
桜は花だけでなく全身に薄紅色を持っている。
本当にそうならこの体は桜に似ている。
あなたと過ごした時間がほのかに色づいた血肉になってこの身を支え生かしている。
なにげないあなたのひとことがいつも世界をぐらぐらとゆらす頭がくらくらとゆれる。
壁にもたれなくては立ってもいられなくなることを何度経験しただろう。
どっしりとそびえ立つ幹や未練なく舞い落ちていく花とはこんなにも遠い。
それでも鮮やかに物言わず終わっていこう。
せめてあなたに美しい姿を記憶にとどめていてほしいから。
あなたが向けた背中をもう追わない。
これ以上思い出を汚すことのないように。
これ以上過去を裏切ることのないように。
これ以上かつてのきらめきを曇らせることのないように。
微動だにせずここに立ちつくすだけ。
だって、桜だから。
あなたの上にたくさんの花を。
あなたの道にたくさんの花を。
願う。願う。ただ深く深く願う。
このさき花をあなたに捧げるのは自分ではないのだから。
もしもあなたが望んだとしても。
ほろほろと散るのはあなたに伝えたかった幾千語もの言葉。
はらはらと散るのはあなたの前で流したかった幾万粒もの涙。
あなたのもとにはもう行かない。
再び新しい花をつけられるようになればひょっとしてあなたがふらりと現れるかもしれない。
それまで、けっして、会わない。
さよなら。