ふるふる図書館


野薊



 あのころのぼくの家のまわりには、未開発の土地が広がっていた。申し訳ていどに有刺鉄線がはりめぐらされただけの、手つかずの土地が誰のものなのか幼かったぼくにわかるはずもない。
 なけなしの結界をいともたやすく乗り越えて、ぼくは探検をした。坂を越え、丈高い草むらをかきわけ、雑木林を抜けて。誰からも見捨てられた神社の鈴を鳴らしたり、倒れかけたお地蔵さんだとか、錆びて色あせた看板だとかを眺めたり、打ち捨てられた自転車をなでてみたり、落ち葉や木の実を拾ったり、野良猫と親交を深めたり。
 いつもひとりだった。両親は遅くまで働いていたし、塾にもお稽古ごとにも縁のなかったぼくには、放課後の長い時間をともに過ごす誰かはいなかった。
 おまけに近所の同年代の子は、女の子ばかり。彼女たちの好む人形遊びやままごとやピアノにはさっぱり興味がなかった。それよりも、秘密基地を作ったり野原を駆け回ったり木に登ったりしたかった。
 だからぼくは孤高の戦士となって、草木の生い茂る未知なる地を進むのだった。手ごろな長さと太さの棒を剣がわりにして(気に入ったものは、秘密の場所に隠しておいた。きれいな形の石ころなんかと一緒に)。
 その日もぼくは、鳥のさえずり、枯れ枝を踏む乾いた音、針葉の香りに包まれて歩いていた。その中に、人の気配を認めた。
 はっとして、剣を握る右手に力をこめた。大人に見咎められたのだろうかと息をつめて、気配を探った。
 木々の間を縫って現れたのは、大人じゃなかった。子供でもなかった。そういう年頃の人間に慣れていないぼくには、どちらに分類していいのかわからなかった。
 たぶん、お兄ちゃんと呼べばいいんだろうとだけ判断できた。
 お兄ちゃんはにこりとしてやあ、なんて言う。そんなあいさつをする人に会ったことはなかったけれど、ぼくは礼儀正しくこんにちは、と返した。
「散歩してるの?」
「散歩じゃないよ、探検だよ」
 お兄ちゃんの質問を訂正した。
「ひとりで?」
 痛いところをつかれた。探検とは、ひとりでするべきものじゃないことは、ぼくだって知っていた。
 ぼくの沈黙の意味を見抜いたのか、相手は「一緒に探検したい」などと言い出した。ぼくはますます困惑した。自分よりうんと背が高くて大人に近い人物と、どうやって接したらいいのか、皆目見当がつかなかった。
 返答を迷っていると、お兄ちゃんがぼくのひざ小僧の傷に気づいた。たぶん、葉っぱの縁で切ったのだろう。お兄ちゃんはすっとぼくの前にひざまずいた。ポケットから取り出した絆創膏を貼ってくれている間、ぼくはなぜかひどくうろたえて、お礼を言うのも忘れかけていた。
「いかがですか? 探検のお供に不足ないでしょう?」と笑うから、「しょうがないな、それじゃあ仲間にしてやるよ」とぼくの口が勝手に動いていた。

 こうして、お兄ちゃんと何度か会った。
 お兄ちゃんとの会話は楽しかった。鳥のさえずりが耳に入ると、鳴いているのはヒバリだとかキジバトだとかヒヨドリだとか、教えてもらった。それまでは、ぼくには単なる鳥でしかなかったのに、世界が少しずつ色を変えて見え始めた。
 植物も、お兄ちゃんが名前をひとつずつ告げていった。ただの草でしかなかったものが、名前で存在を訴えてきた。ぼくはおどろきとおもしろさと怖さを感じた。当たり前に感じていたものがまったくちがう顔を見せた瞬間のような。お父さんやお母さんの名前がほんとうは自分と同じようにあって、自分と同じように子供だったころがあると知った時のような。
 お兄ちゃんが心配げに、黙ってしまったぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくはお兄ちゃんの名前を聞きたいと思った。だけど恐ろしい気がした。お父さんからもお母さんからも、おじさんからもおばさんからも、先生からも、ぼくは名前で呼ばれているのに、お父さんもお母さんもおじさんもおばさんも先生も、名前で呼ばれない。大人は名前がないみたいに。あっても役に立たないみたいに。それは、子供が呼んではいけないものだ。お兄ちゃんには、名前があるのだろうか。尋ねたところで、ぼくがその名を呼ぶことはないだろうけれど。
 お兄ちゃんがぼくの手を握った。そのしぐさがなんだか過保護で、ぼくは笑みを浮かべていたらしかった。
「あ、笑った」
 お兄ちゃんが微笑んだことで、ようやく自分の表情に気づいた。ぼくは急いで笑顔を消そうとした。そのまま笑っていればいいのに、とお兄ちゃんが不思議そうにしたけれど、かたくなにかぶりを振った。
 頑固な子、とお母さんはぼくのことをそう言う。いつだって。我が強くてとげとげしくて、目つきがきつくて。素直じゃなくて、優しくなくて、笑わなくて、ぶすっとしていて、不機嫌そうで、と。可愛げがない、と。
 だから、ぼくは、せめて。
 男の子に生まれたかった。男の子になりたかった。
 可愛い女の子になんか、なれない。なりたくない。
 前触れなしに目からぽろぽろと滴が落ちて、視界が水であふれ埋めつくされた。
 ぼくが泣き出すと、決まって大人はどうしたのと理由を聞く。説明できるくらいなら泣きやしない。言葉にできないから泣くんじゃないか。
 お兄ちゃんは静かにぼくの頭をなでていた。許しをもらっている気がして、ぼくは思いきり声と涙を体から絞り出した。
 学校でも、登下校の時でも、休み時間でも、話の輪に入れなかった。遊びの話に加われなかった。教室では、ハンカチで作った指人形で遊んで。公園では、ひとりぼっちで砂場で山を作って。ひたすら泥団子を作って。たまに独りごとを言ってみたりして。話しかけてほしかった。一緒に遊ぼうって誘ってほしかった。
 わからなかった、知らなかった。話しかけ方も、誘い方も、孤独より恐ろしい拒絶を乗り越える方法も。
 名前も知らない誰かに優しくされたり、話しかけられたりすると、胸が弾んで天にも昇る気持ちになって、生まれてから今まで何人の人に親しくされたかを数えてわくわくして。
 なのに自分では誰かに親切にできない、その罰なの?  頑固だから、素直じゃないから、ぼくはひとりぼっちだったの? ぼくのせいなの?
「きみは悪くないよ。きみはいい子だよ」
 お兄ちゃんの声に、ぼくはまた首を振った。
「きみのこと、前から知ってたよ。見てたんだよ」
 その場にひざをついて、ぼくの頬をハンカチでそうっと拭いてくれた。そうして、やわらかいねえ、なんて間の抜けたことをつぶやいた。不意打ちを食らって、ぼくはお兄ちゃんを見つめた。
「お母さんは、ぼくのこと、とげとげしくて、頑固で、屁理屈ばかりって言うよ。やわらかくなんか、ないよ」
 ぼくがしゃくりあげる息のもと途切れ途切れに反論すると、お兄ちゃんは目を細めて、すぐそばに咲いていた紫色の花を指さした。群れることなく凛と立っているその花は、派手さはないのにどこか目立ち、つんつんととがった針山みたいな形をしていた。
「この花、知ってる? 葉っぱはとげだらけで、ちょっとでもさわるとすごく痛い。でもね、食べられるんだよ。おいしいんだよ」
 食べられる? それじゃあぼくも、食べられる、の? お兄ちゃんは子供を食べちゃうの?
 びっくりして涙も泣き声もひっこんだけど、お兄ちゃんは剣呑で不穏な発言に反して穏やかに笑うだけだった。

 *****
 勤め先の同じ課に先輩がいる。たしか五つくらい年上だ。
 身なりにまったくかまわなくて、おとなしくて目立たなくて一日中ほとんど口をきかなくて、特に女子課員から変わり者だからと敬遠されている。先輩とちょっとしたおしゃべりをしようものなら、後で女子たちから「よく普通に話せるね」と言われるほどだ。だけど先輩はほんとうはとても繊細で、人付き合いが好きで、打ち解けると冗談を言うし笑顔も見せる人だ。
 ふだんは愛想なくむすっとしているような顔が、笑みを浮かべてくれるのはうれしい。
 先日、携帯のアドレスを聞いたら教えてくれた。メールを送ったら、一日遅れで返ってきた。ちゃんと携帯を見ているのかと少しおどろいた。もしかしたらどう返信していいのか悩んでいたんじゃないだろうかと想像したらおかしくなった。ちょっとくだけた口調で、絵文字が入っていることも意外で笑ってしまう。
 ふと、先輩のメールアドレスが心にひっかかった。
 "noazami"という文字が入っている。
 先輩はあのお兄ちゃん? まさか、ね。
 お兄ちゃんの名前は、結局知らずじまいになっていた。それとも、聞いたけれどもその名で呼ぶことなく忘れてしまったのか。
 だけど今なら、名前をためらわず口にできる。もう子供ではないのだ。

20090524
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