リラ
ぼくは、しらない。なにひとつ。
「きみは、ぼくとちがうね。きみは誰」
椅子に腰かけているぼくに、少年が近づいてきて、ぼくの顔を覗き込んだ。
「きみはどうしてそこにいるの」
再びぼくに問いかける少年に、別の少年が言った。
「いくら聞いても返事しないよ、シキミ。こいつはDOLLなんだから」
シキミと呼ばれた少年は、ぼくから目を離さないまま応じた。
「でもさ。ほら、今にも動きそうじゃないか。ほんものの生きてる人間みたいだ」
「ばかだなあ、DOLLはDOLLさ。きみの言っていることだってわかりっこない。ああ、不用意にいじったらだめだよ」
「いいじゃないか、ちょっとくらい」
「壊れたら大変だぞ」
「大げさだね。そんな脆いものならミュージアムに展示しておかないんじゃないか」
「観賞用を兼ねているんだよ。シティの蒐集品さ」
「確かに、今どき珍しいね、混ざり物なしの原型の体は。どのパーツにもスペアが使われてないなんて、ずいぶん希少だ。この下もそうなのかな」
シキミはぼくのシャツをつまんだ。
「だから、触るなってば。DOLLだもの、スペアでないのは当然だろ。奇妙だよ、ぼくたちとちがう体ってさ。カスタマイズもされていないし」
「そうかな。きれいだと思うけど」
「触りたくはないよ、オリジナルだなんて。レプリカでも気持ちが悪い。ましてや話しかける気にはとても」
「ただ見られているだけじゃあ、DOLLだってさびしいだろうに」
「感情もありやしないんだってば。まったく変わってるよなシキミは。もう諦めろよ。行こう」
少年がシキミの右腕をひいた。ぼくに伸ばしたシキミの指先は遠ざかった。
シキミはぼくに触れなかった。ぼくはシキミに触れられることを望んだ。シキミは探していた少年だった。待ち続けていた少年だった。
会いたかった。
あなたは、わたしとちがうわ。あなたは誰。
出会った少女に、ぼくはヴィオラと名乗った。
ヴィオラってどういう意味か、しっているかしら。
「しらない。名前に意味なんてあるの」
言葉には意味があるのよ。
少女は目を細め口角を上げた。その表情の意味をぼくは、しらなかった。
「きみの名前は」
リラ。
「意味は」
モクセイ科ハシドイ属の落葉樹。
「それはなに」
植物よ、しらなかったの。
「ぼくは、しらない。なにひとつ」
ここがどこかもしらないでしょう。森よ。出入りを禁じられた森。シティがネットワーク上に構築した空間。
「きみはどうしてここにいるの」
わたしはあなたとちがうからよ。
リラと一緒に森を歩いた。
ぼくたちは、動かない男の体を数え切れないほどの女たちが運んでいるところにぶつかった。
「あれは、誰。なにをしているの」
ぼくが尋ねるとリラが答えた。死んでいるのは蝶よ。運んでいるのは蟻。蝶を食べるために運んでいるの。蟻たちは蝶を食糧にするのよ。
「食べるって、なに」
生命を維持し、成長や活動をするために栄養素を摂取する行為よ。
次にぼくたちは、女の体を男が食いちぎっているところにぶつかった。
「あれは、誰。なにをしているの」
ぼくが質すとリラが応じた。死んでいるのは雀よ。噛みついているのは猫。猫は雀を食べているの。
女は次々にばらばらになった。
「食べるって、みんながすることなの」
ええ。あなたもしていることよ。
「ぼくは、しらない」
森から戻ったぼくの静脈には針が刺さっていた。投与される薬剤。ぼくの体内に侵入する異物。森で見た光景を思い出してぼくは嘔吐した。くちもとと胸部が吐瀉物にまみれた。ぼくの体は一切の薬剤を受けつけることができなくなった。すべての栄養素を拒絶した。
処置に困った人たちが、ぼくを別の部屋に入れた。
それでぼくはDOLLになった。
禁じられた森へ向かった。再会したリラの表情筋は、前にぼくが見た動きをした。
「あなたもわたしと同じになった」
リラの動作を「微笑」と称すると、ぼくに内蔵されたDOLLのデータがぼくに教えた。
「あなたもDOLLになったのね、ヴィオラ」
ぼくはリラを真似て、はじめての微笑を試みた。
DOLLになる前のぼくは、無菌カプセルの中で生きていた。かつてのぼくは自力で食物を摂取できなかったが、DOLLになれば食物は必要ない。耐性がなかったので光を浴びたことがなかったが、DOLLは罹患しない。パーツをスペアと交換することができないほど抵抗力が欠落した体は動かすことができなかったから移動は体を使わず端末機を使っていたが、拘束されて体の自由のないDOLLは移動手段を必要とせず、ネットワーク中のどこへでもいつでも移動できる。声帯の退化や感染症への危惧から人と会うことや話すことが皆無だったが、DOLLどうしは端末機を介さず会話や接触が可能だ。
ぼくはリラに触れた。体のいろいろな箇所を用い、あらゆるやりかたでリラのデータを収集した。リラも同じことをぼくにした。
リラとぼくはまじりあった。リラの記憶がぼくの中に流入してきた。
紫色の花、甘い香りがぼくの視覚と嗅覚に充満した。
「これがリラよ」
リラの林に人がいた。ひとりの少年とひとりの少女。少女はリラだった。リラと融合していたぼくだった。
「この子は幼いときのリラだね、DOLLになる前の。彼は誰」
「名前、忘れたわ。ずっと会っていない。会うこともない」
「どうして」
「ヴィオラとちがって、わたしのハードウェアはもうないの。明日、わたしの残りもみんな廃棄されるわ、出来損ないの欠陥品だったから。観賞用としても用済みになったから。だから、あなたの中にわたしを移植してもらいたいの。わたしのメモリ全部とはいわない、一部だけでいい」
「どうして」
「彼にわたしを思い出してもらいたいから。彼のフィジカルデータはシティの中枢からダウンロードしたわ」
「リラのメモリをぼくにインストールしても、メンテナンス時に駆除される」
「それでもあなたに託したいの。セキュリティ対策はするわ。彼があなたにアクセスしたらわたしはあなたから削除されるように設定する。不具合を起こしてヴィオラが処分されるようなことにはならない」
「いいよ。リラになにをされてもかまわない。それに、ぼくが壊れてシティがシステムダウンしてもぼくには関係ないもの」
リラは、ありがとうと微笑んだ。
DOLLになったのに、ぼくは、しらなかった。少年がぼくを見つける可能性は著しく低いはずなのに、それでも行動を起こすリラの思考も、理由も。
一部のぼくはリラに変わった。リラの全部はぼくに残った。リラとぼくは一体になった。
ぼくが展示されているミュージアムに、シキミがひとりでやって来た。ぼくが待っていたシキミ。リラが会いたがっていた少年。
「ねえ。DOLLって、昔は人間だったってほんとうなの」
シキミはぼくの耳にささやいた。質問に音声や動作で応じることはぼくはできない。シキミは話を続けた。
「仲のよかった女の子が行方不明になったんだ、もう、その子の名前も顔もおぼえていないくらい昔に。その子はDOLLにされたって噂が立ったんだよ」
シキミは言葉を切り、まさかね、そんなわけないよね、と笑った。
「それにしても、きみ。機械だなんてやっぱり信じられないな」
シキミのてのひらがぼくの頬をなでた。
シキミのパーツに埋め込まれた識別信号をぼくの肌が感知し、リラがぼくに組み込んだプログラムが起動した。
陽光にやわらかく包まれる視界。視界にあふれる紫の花。花が放つ甘い芳香。芳香を乗せて吹く風。風に揺れる髪。髪をなびかせる少年を見つめる少女。少女を見つめる少年。シキミとぼくはリラの森にいた。リラのメモリだ。
呆然としている彼に、ぼくはシキミ、と呼びかけた。ぼくの中のリラがシキミに触れ、シキミの存在を確かめた。
シキミがぼくを振り向いた。
「リラ……」
ぼくは、しらなかった。シキミが呼んだのが彼女の名前なのか植物の名前なのか。
ぼくの涙腺から分泌された水滴が、頬へと流出した。
ぼくは、しらなかった。涙がリラのものなのかぼくのものなのか。
だけど、
ぼくは、
しった。
「あ な た が す き」
消えていく、リラの記憶。
消えていく、リラの存在。
消えていく、恋ごころ。