ふるふる図書館


金木犀



 秋の日はおだやかで澄明なのに、心が静かにたかぶってくる。
 金木犀の香りに酔っているのかもしれない。
 寝つきの悪い夜がつづき、不眠に効くという金木犀のお茶を作ろうと思い立った。
 巨大な金木犀が植わっている、よく晴れた昼下がりの庭に出た。
 根元は、散ってしまった星くずのような花にいろどられていた。
 紙を敷いたかごを持ち、落ちてくる花を受けとめた。
 集めた花を乾燥させた。
 ベッドに入る前、お湯をさしてお茶にした。
 窓から入ってくる月の光があんまり明るいので、部屋の明かりを消した。
 ティーカップを手に、ぼんやり椅子に腰かけていると、鏡が目に入った。
 だめだよ。
 鏡の中のぼくが言った。
 満月の晩に、鏡を見てはいけないよ。
 どうして。
 魂を吸い取られるんだ、もうひとりの自分に。
 ぼくは鏡をのぞきこんだ。瞳が奇妙にかがやいていた。月光を反射していたのか。
 すてきじゃないか。
 カップを置いた。たちこめる花の香りで、頭の芯がしびれているのを自覚した。
 匂い立つのは、ぼくの吐息かもしれない。
 いいのかい。
 おかしなことを言うね、自分から誘ったんじゃないか。
 高鳴る鼓動は、自分のものか、相手のものか、わからなくなった。
 ひきよせられるように、もうひとりのぼくにそっと触れた。
 重ねた手のひらも、合わせた唇も、ひんやりと冷たかった。
 その感触に、ぼくは目をひらいた。
 かごをひざに乗せたまま、沈みゆく日ざしの中、幹にもたれてうたた寝をしていた。
 降りそそぐ花に埋もれ、体中に香りがしみついていた。
 まるでぼくは金木犀の化身だ。
 いや、この大木に吸いこまれ、同化しかけていたのかもしれない。
 あんな夢を見せたのは、この木のしわざにちがいないのだから。
 この国には雄株しか渡来していない。自分との実を結ぶ相手を探したところで、見つかりっこない。
「ぼくと同じなんだね、おまえは」
 ぼくは、木肌に頬を押しつけた。
「相手を求めて心をさまよわせるのは、おまえだけじゃないんだ」
 まぶたを閉じて、唇を指先でなぞった。
 たとえ夢でも、やっと会えたのに。きみになら、ぼくなんか喰われてもいいのに。
 そうしたら、きみの体の一部になれるのに。きみとずっと一緒にいられるのに。

20050820
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