沈丁花
世界はとうとう臨月に入った。
なまあたたかい羊水に浸されつくばっているぼくは、またしてもこの場所へ生まれ落ちる覚悟をしなくてはいけないのだ。
何度でも、何度でも、春はくりかえされる。待ちのぞまない約束。
なにか今にも罪をおかすのではないかという気持ちになる耳鳴りだった。
ぼくの日常のあらゆるものが耳鳴りに染めあげられている。耳鳴りがすみずみまでを支配している。すべてが耳鳴りにまみれている。
ああ、ねじが、世界のねじがゆるんでいる。
世界をつつむ膜が、ぼくとぼくでないものをへだてる膜が、たわんでいる。
耳鳴りが、ひどい。相変わらず、やまない。
ぼくは女をひとりころした。
きりきりとひきしぼられていた大気がたるんであのかおりがとけだす。いや、あのかおりが世界のほころびをつくるのにちがいない。
かおりは耳鳴りとなって、ぼくの耳奥にかくしたDNAみたいな螺旋にまで入り込み、うずくまり、とぐろを巻いて占拠する。
ぼくの生まれた日もこんな陽気だったのだろう。だからミズカだなんて名前をつけられたのだろう。
瑞香、ずいこう。沈丁花の別名。
自分の名前に使われている花に興味をいだいて、幼いころ調べてみた。
花言葉は、栄光、不死、不滅、歓楽、永遠。
知らなければよかった。こんなのうそだもの。
ぼくが生まれた日。女がしんだ日。
誕生日が命日だなんて。なぜぼくを産んでしんだんだ。
母さん。
かおりは脳髄までも浸し、あまく毒していく。おだやかにむしばんでいく。耳鳴りから、逃れることはかなわない。一生。
幾度でも。幾度でも。咎は巡ってくる。ぼくのからだはおぼえている。はじめて出会った世界を、季節を、烙印を。
「瑞香」
呼びかけがぼくを我に返した。
「瑞香は春先になるといつもぼんやりしているのね」
ぼくはあいまいに微笑み、彼女の腹部のはちきれんばかりのふくらみに視線を落とした。そっと添えられた白い手の奥、ぬるい羊水につつまれてひとつの命がうずくまっている。
もしこの子が、ぼくの子が彼女をしなせてこの世に扉をあけようとするなら。
ぼくはどちらを助けるだろう。
「いいかおりね。瑞香の花ね」
冬のあいだにうつくしく締まっていた秩序が。
「わたし、この季節がすき。沈丁花もすき。もちろん瑞香も」
ほどける。こわれる。ぬかるむ。くるっていく。
「沈丁花の花言葉もすき」
ぼくだけにしかきこえない耳鳴りがぼくをといつめ、さいなむ。きりきざまれる苦しささえも緩慢。赤いひとしずくすらも流れやしない。血みどろで産声を上げたはずなのに。
いつまでも永遠に戻り来る春。
おまえが彼女をころそうとしたら、ぼくはきっとおまえの息の根をとめるだろう。