ふるふる図書館


一初



 子どものころ、近所におじいさんがひとりで住んでいた。
 ぼさぼさの白髪頭をして、いつも腕に人形を抱えていた。
 おじいさんと同じく顔がわからないほどぼさぼさの頭。もとの肌色が想像できないほど古びて、ひどく汚れた人形だった。
 そんな人形に、おじいさんは話しかけたりうなずいたりしていた。
 あの人に近づいてはいけないと母に注意されたし、友だちもまわりのおとなたちもみんな気味悪がっていたから、内緒でおじいさんに会っていた。
 おじいさんの庭には、春にむらさき色の花がいっせいに咲いた。名前をきいたら、「いちはつ」だと答えが返った。
 いちはつの庭に水をまいたら、虹がいくつもできた。
 つかまえようと手をのばしては失敗した。
 おじいさんは、虹をとらえることなどできないと真剣なまなざしをした。だから魅入られてはいけないのだと。
 おじいさんが小さいとき、幼なじみが行方不明になったそうだ。虹の終わりを見に行く、と言って家を出て、そのまま帰らなかったと。
「ずっとずっと、いつまで待っても?」
「いつまでも待った。季節がめぐって、おとなになっても、あの子は戻らなかった。待ち暮らして、こんな歳になってしまった」

 数年後、おじいさんはひっそりと亡くなった。
 身元もわからなかったらしい。

「"pupil"って単語知ってる? 『生徒』のほかに、『瞳』の意味もあるんだって。漢字でも、目にわらべと書いて『瞳』なんだよね、おもしろいと思わない?」
 部屋で一緒に英語の課題をかたづけていた同級生が、不意にそんなことを言った。
 英和辞典には、眼球の模式図が載っていた。
 ふと、"iris"の文字が目についた。
 虹彩。アイリス。虹の女神の名前。
 あっと叫んで、部屋を飛び出した。同級生がおどろいて、名前を呼びながらついてくるのにかまわず、おじいさんの住んでいた家に走っていった。
 おじいさんは、いちはつの庭でこう言ったのだ。ひとつだけ、虹をつかまえてとじこめる方法があると。
 主をなくした家は、手つかずのまま荒れ放題になっていた。
 あの人形は、ほどなく見つかった。
 髪をかきわけて、顔を見た。正確には、片方の瞳を。
 まぶしいきらめきが、あばら家を貫いて走った。
「虹の女神」。何十年も前に盗難に遭った、何十カラットもするダイヤモンド。犯人はとうとう見つからなかったという。
 いちはつは、アイリスとされている。おじいさんは、周囲にヒントを与えて、自分の罪が誰かに気づかれるのを待っていたのだろうか。
 いつまでも消えない虹。ずっとここにあったのだ、遠く旅立ったひとを今度こそつなぎとめようとして。
「ねえ、いったいどうしたの? ここは何?」
 追いついた同級生がけげんそうにたずねてくる。
 もうすぐ留学する、大切な親友。遠い国へ行ったきりもう二度と帰って来ないなんて言われたら、この友を、片目に虹を植えつけた人形にかえてしまうことになるかもしれない。

20051208
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