薔薇
わたしは知識に飢えていた。貪欲に吸収したがっていた。
博識だった彼は、その点だけでも十分敬意に値する人物だった。
誰よりも洗練されていて、誰よりも優雅な彼に出会って、その花は、「ばら」でも「バラ」でもなく、「薔薇」に姿を変えた。
彼は薔薇が好きだったから、リルケの詩もそらんじていて、よく教えてくれた。
リルケは薔薇のとげに刺されて死んだんだよ、と遠い目をして言うものだからくすぐったくて、できすぎた話だね、とわたしは意地悪く笑ってやり、彼をがっかりさせようと腐心した。
誕生日に薔薇の花束をもらうという経験も、彼が与えてくれたことだ。
すでに決まりきったことのように、それは届いた。
花びらはつややかでひんやりしていて、ビロードのようなしっとりとしたさわり心地がした。
もてあましてしまうぜいたくな贈り物があるということをはじめて知った。
どんなに美しくてもみずみずしくても、やがてしぼんで枯れてしまう。
すがすがしい芳香も、甘ったるくしつこいものに変わっていく。
ドライフラワーにするのは未練がましい気がした。
せめて、食べてわたしの細胞の一部にしようと、花びらを一枚つまんで口に入れたら、香りは甘いくせにすこぶる苦い味がした。
次に会ったとき、気に入ったでしょうとさも当然の顔をするから、まじめに文句を言った。
花束なんて、もう贈らなくていいと。
相手は困ったようなおだやかな笑顔を浮かべるだけだった。
真紅の薔薇の次は、ダイヤモンドの首飾りだった。
ぎらぎらと輝きのきつい宝石は、好みではなかった。
石ならアンモナイトの化石や蛍石の結晶がいい、という意見は、例によって笑顔で黙殺されたらしかった。
彼はわたしを自分好みの少女にしたてようと、たいそう辛抱強く手を焼いた。
服装や髪型について要望を述べ、高価なものを次々に買い与えた。
リボンやフリルやレースでわたしを飾りたてようとした。
従順な、愛玩人形。彼の意識と知識を余すことなくしこまれた、彼の分身。
そんなものはいらない、とわたしは反発した。
縛りつけないで、押しつけないでとかんしゃくを起こした。
わたしが逆らっても、おだやかに微笑むだけで、さらにわたしを不満にした。
子供のわがままを鷹揚に聞き入れてやっている、という風情だったから。
その過保護ぶりは、わたしの自尊心を傷つけた。
ドアは自分で開けたかったし、椅子は自分でひきたかったのだ。いちいち、手を貸してほしくなかった。
きれいなものを惜しげもなくくれるおとなの彼と、なんとかして抵抗しようとする子供のわたし。
いつもおだやかに諭していた彼と、そんな彼にいつもいらだちを募らせていたわたし。
ほんとうに子供だったのは、わたしのほうだったのだろうか。
わたしのそばに彼はもういないけれど、彼はまた、新しい少女を見つけたことだろう。
わたしは解放されたのだ。
なのに。
わたしには、彼に丹念に植えこまれた多くの知識と美意識が残された。
リルケ、テニスン、ハイネにワーズワース。ワグナー、サティ、ショパン、シューベルト。あまたの薔薇やワインの品種……。
しっかり根づき、いつまでも離れていかない。今のわたしは、確かにそういうものでできていた。
そこだけを見れば、わたしは彼の模造品にまちがいない。
愛玩人形にはなりそこねたけれど。
無知で野蛮な少女だったころには戻れない。
でも美に耽溺しきった彼のようには到底なれない。
どんなひととつきあってみても、ものたりなさばかり感じる、中途半端なわたし。
植えつけられ、根をはり、成長した、甘い香りと苦い味がする薔薇でできた鎖。
いくつものとげを食いこませ、いまだにわたしを縛りつけている。