ふるふる図書館


カブに乗った王子様



 インターホンが鳴った。
 ああはいはいっと、今行きますよ。ひとりごとをつぶやきながらエクセルで作成していたファイルを上書き保存すると、小走りにドアの近くのモニター画面に向かった。
 時間からして、間違いなく出前の配達。自分が食べるのではなくて外回りの社員たちの分。みんな外出中だから、留守番の社員(つまり自分)がいつもお金を立て替えて支払っている。配達がやってくるたびに仕事を中断させられるのはあまり愉快でないのだけど。だって配達はいつやって来るのかわからないから、トイレに行きたくなってもちょっと席を外すわけにはいかないし。ここのインターホンは一回押しただけでも「ピンポーンピンポーン」と間延びした調子で二回鳴るのもうっとうしい。一度でわかるって。だいいち人のお昼代を払うなんて業務でもなんでもない、単なるサービスだ。ボランティアだ。親切だ。優しさだ。
 ふー。毎日出前だなんて豪勢だ。常につましく弁当生活な薄給事務員と雲泥の差。さーて本日はそばか洋食かカレーか丼か。
 受話器を取って「はい」と言うと耳慣れた声が返ってきた。
「こんにちはあー。万福軒でーす」
 中華だ。
「今開けます」
 たったったっと駆け寄ってドアを開くと、岡持ちを提げた万福軒のいつものお兄さんがにこにこと入ってきた。口もとからのぞく八重歯がきらりまぶしい。
 あれ? 今日は眼鏡だ。なんだあ黒くて太くてごっついフレームだなあ大橋巨泉っぽいぞ。若いのにどっかのオッサンみたい。バイクに乗ってるところとすれちがうことあるけど、笑顔で会釈されるけど、眼鏡なんかかけてない。普通はコンタクトってことか。あー、もしかして花粉症か。
 あれこれ頭を巡ったが、「今日は眼鏡なんですね」なんて話しかけるほど仲よしさんではない。お兄さんはいつも愛想いいけど。雨の日も雪の日も常に元気だけど。たぶんそんなんじゃない。
「はい、三千七百円です」
 皿や丼を手際よくテーブルに並べ終わったお兄さんが言った。
「すみません、四千円で」
「はい、三百円のお返しですね」
 小銭を探って、腰につけた大きな黒いポーチをがさごそ。
 へえー眼鏡ねえ。印象変わるもんだねえ。ていうかさっぱり似合わないねえ。
 手持ち無沙汰に眼鏡を見てたら、伏せたまつげも視界に入った。半キャップのヘルメットでおさえられて目もとに垂れた前髪ごしに見るまつげ。うわっ。長っ! って、なんで今さら気づいてんだろうか。そっかあ普段こんなに顔をまじまじ眺めたりしないもんな。けっこう色白だな。くちびる赤くてぷっくりしてる。ん?
 げ。なんか、なんか、可愛い?
 ふと視線を落とす。お兄さんのジーンズとスニーカー。いわゆるヴィンテージ?
 げげ。もしかして、もしかして、お洒落さん?
 使い古した半キャップと万福軒のロゴ入り白いうわっぱりと年季が入っておんぼろになった防寒用ジャンパーにまんまとだまされてた?
 なんだよなんだよなんだよ、詐欺師! ペテン師! うそつきはどろぼーのはじまりだぞ!
 だからってさ「その靴かっこいいですね」なんて言えるか言えるもんか。
「三百円のお返しです」
 コインを三枚手渡してこちらを見つめてにっこり。
「いつもありがとうございます! またお願いします」
 さわやかなあいさつを残し、お兄さんはさっそうと跨ったスーパーカブで万福軒へと去っていくのだった。カブ独特のエンジン音がミルキーな色の空の下ぐんぐん遠ざかっていく。
 うわ。うわうわ。うわー。スプリング・ハズ・カム? 春がきた春がきたどこにきた。
 たしかに盗んでったよ奴は。大変なものをさ。口にするのもこっぱずかしいやつをさ! 誰にでもあんなに愛想を振りまいているに決まっているのに。
 ちくしょう杉花粉め。杉花粉め! ありがとうなんて言うもんか、絶対感謝なんかしてやんないんだからな!

20080303, 20090315
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