わたしの痕跡
身寄りのなかったぼくは、ほんのちびのころに尚(ナオ)くんの家にひきとられた。
知らない人に囲まれて、怯えて小さくなっていたぼくの頭を、尚くんはやさしくなでてくれた。
「怖がらなくても大丈夫だよ」
にっこりと笑って。
ぼくの名前も、尚くんが考えてくれた。
「凛(リン)ってどうかな。可愛いと思うんだ」
名なしだったぼくは、尚くんに名前をもらったんだ。
だから凛は、尚くんのもの。
その日から、ずっと。
尚くんの言うことなら、どんな命令だって聞く。
尚くんのためなら、自由なんていらない。
ぼくたちは、家の裏手の森でよく遊んだ。
咲く花の名前は、尚くんが教えてくれた。春にはたんぽぽとれんげ。夏には野ばら。秋にはわれもこう。
尚くんは、草木になっている実を摘んで、食べさせてくれたりもした。ざくろやしゃしゃんぼ、こくわ、ぐみ。どれも酸っぱくて、でも尚くんと並んで食べると、不思議に甘い味がした。
さんざん駆けまわって、池のほとりに寝そべって休んでいるうち、ぽかぽか陽気と心地よいそよ風に包まれてうたた寝してしまうこともあった。
ぼくの体に腕を回し、抱きかかえるようにしてかたわらで眠る尚くん。ほんのりとあたたかいほっぺたのやわらかさをたしかめたくて、鼻の先をくっつけたりしたっけ。尚くんを起こさないように、そうっと。
まどろんでいると夕暮れになって、ぼくたちを探しに来たお母さんに、一緒にしかられるんだ。
「こんなところで寝てはだめよ」って。
決まって、ぼくたちにはおそろいの、緑の香りが染みこんでいた。そういうささやかなことさえ、ぼくにはうれしくてたまらなかったんだ。
ぼくは生まれつき、言葉が話せない。
もしも会話ができるなら、尚くんに、たくさん「ありがとう」って伝えられたのに。いっぱい「大好き」って言えたのに。
ぼくの誕生日は、尚くんの家の子になった日。尚くんに出会った日。尚くんに名前をつけてもらった日。
十二歳になった。
立派な若者になった尚くんよりも、うんと年下。
だけどわかってる。ぼくはもう晩年にさしかかってるってこと。尚くんを置いていかないといけないのがぼくの運命なんだってこと。
尚くんに会えたから、ぼくはほんとうの意味でこの世に生まれることができた。
尚くんのおかげで、ぼくの世界はできあがった。色が増えて、匂いがついて、感触が与えられて、ぬくもりが加わった。
尚くんと別れたら、そういったものすべてがなくなる、それは考えたらあたりまえのことなんだね。
尚くんがいなければ、ぼくの世界は消えてしまう。
尚くんが凛の世界そのものなんだ。
「凛、凛、苦しいの? つらいの?」
尚くんが、横たわったぼくのそばにひざをついて、泣きそうな顔をする。
ああ、ぼくは、尚くんに凛って呼ばれるのがほんとうに好きだった。
尚くん、ありがとう。可愛がってくれて、大切にしてくれて、凛は幸せだった。
だからこれ以上の望みはないけれど。
もし願いが叶うなら、生まれ変わってもまた、尚くんのそばにいたい。
そうだ、次は、女の子になれればいいな。笑顔が愛らしくて、ほんのちょっぴりおしゃべりで、尚くんの隣によりそっているのが似合う女の子に。
それでも尚くんは、ぼくのことわかってくれるかな。姿かたちが今とまるきりちがっていても、ぼくの痕跡に気づいてくれるかな。
伏せったまま動かないぼくを、尚くんの手がなでつづけている。
ぼくは最後の力をふりしぼって、尚くんの手をそっと舐め、ずいぶん毛並みの衰えたしっぽをゆらりと振って、目を閉じた。