ふるふる図書館


 見上げると気持ちが悪いほど穴だらけだった。そんなにたくさんあったらこぼれ落ちてしまう。闇の向こうにあるものが。ほら、誰もが穴をあけられて動かなくなった。そこから大切なものがにじんで洩れて流れ出した。それでみんな死んでしまった。空もきっとしぼんで倒れて死ぬ。
 あ。ちがう。これは星だ。星の光だ。
 生まれ故郷では、こんな夜空じゃなかったから星だと気づかなかった。
 星だと思った瞬間に、たくさんの点々は星になった。人間だ、お父さんだ、お母さんだ、とわかったところで、床や地面にころがっていたものは人間にならなかった、お父さんにならなかった、お母さんにならなかったのに。
 僕は星を見る。星は僕を見ない。
 僕はたったひとりだ。




スターリィスカイ・スターリィナイト




 I see the moon,
 And the moon sees me;
 God bless the moon,
 And God bless me!

 ミウの声は風に乗ってのびやかにひびいていく。ミウは歌が上手だ。そんなことないよ遠慮なく声を出しているだけだよと本人は笑うけれど。ミウの言うとおり、誰にとっても簡単なことなんだろうか。声を出すことも歌うことも、ミウと同じように気持ちのよいものなんだろうか。僕には至極むずかしいし、楽しいことでもない。屈託がないというのはそれ自体、才能だ。財産だ。幸福だ。
 唱和のかわりに僕は朗読をする。
「僕は月を見る。月は僕を見る。神さま月に祝福を。神さま僕に」
 不意に水底から記憶が泡立ち、さざなみが咽喉を焼いた。声帯は脳と乖離し背を向け僕を裏切った。途切れた言葉を紡ぎ出せない。
 僕は星を見る。星は僕を見ない。あの晩のことなどほとんどおぼえていないくせに。踏みにじられたふりをして。辱められたふりをして。可憐なふりをして。美しいふりをして。傷ついたふりをして。卑怯で汚い僕。やめてしまえよそんなの。
 虐殺のあった村で唯一生き残った僕が発見されたときに声を失っていたというのだってずいぶん後から聞かされた話だ(それで兵士に見つからなくてすんだのだとも)。そのくせ、僕にすらどこにあるのかわからない古傷は思いがけないころを見計らって勝手に執拗に存在を主張する。
 ミウが眉根をくもらせた。僕のずるさを知らないミウにそんな表情をさせてはいけない。なにを言っても、なにを言わなくてもミウを砕くのではないかと恐れた。
 祝福をミウに、神さま。

 ミウがポケットからさしだしたキャンディを僕は断った。包み紙をはがしてミウが頬ばったキャンディはひやりとした香りで僕の鼻腔を涼やかに焦がした。
 ミウの住居のベランダは広くて日当たりのいい場所にしつらえられている。僕たちだけの特等席だ。
 絞られていた咽喉はすぐに平静を取り戻した。こんなときはいつも、なにごともなかったように僕たちは会話を進めていく。
「それ、薄荷だろ」
「うん。好きなんだ」
「そう。よかった」
 安堵した。僕とすごしているミウの、このひとときは、薄荷の味と芳香が満たしているはずだから。
 ミウがからかう口調できいてきた。
「アズはきらいなの。もしかして案外、好みが子どもっぽかったりするの」
「僕に気をつかうなよミウ」
 わざわざ明るくふるまおうとする必要はないのに。だけどそうさせているのはほかならない僕だ。ミウがごめんと謝った。ミウに非などかけらほどもない、それを口にすべきは僕だというのに。
「なにが」
「いつも僕からキャンディもらわないもの。きらいなものをすすめてごめん」
「ちがうよ」
 ちっぽけな飴玉たったひとつでミウの存在がうすれてしまうから。口に含めばミウからほんの幾許かでも気が逸れ隔てられてしまうから。僕は舐めない。
「アズも薄荷、好きなの」
「きらいじゃない」
「ほんとうかなあ」
 わざとらしくミウは疑い深い目つきをしてみせた。
「じゃあ、口、あけて」
 言われたとおりにすると、僕のくちびるのすきまに食べかけのキャンディがするりとすべりこんだ。拒むひまも与えない早業。僕の世界はすきとおった薄荷の味に膿み、エーテルのように僕を輪郭に沿ってぴったりとおおいつくした。
「からいだろ」
 冷たく涼しい領域の向こう側から、膜をかろやかにくぐり抜けて届いたミウの問いかけ。僕の意識はそれにつけこみ、ミウをひきとめからめとろうとした。僕の困惑を置いてきぼりにして。
「別に、」
 キャンディはからいどころか奇妙に甘ったるかった。それも胃の底からきりきりとしみ出てくる甘さだ。僕の味覚は壊れてしまった。
 ミウはとらわれの身になったことに気づきもしない。
「不思議だね。この空、昼間は星を隠しているなんて。実はいつだってそこで光っているのにね」
 ミウの視線をたどると、初夏の空は乳白色の靄がうっすらかかっていた。
「前にね、高原に旅行に行ったんだ。そうしたら夜、星がいっぱいだった。だけど増えたわけじゃないんだね。もともと、ものすごく多くの星があるんだよね。どうして目に見えないと忘れてしまうんだろう」
 ミウは寝そべり、投げだしていた僕のひざに頭をのせた。
「小さいころは、桜は春だけしか桜じゃなかった。金木犀は秋だけしか金木犀じゃなかったんだよ。花が咲く季節がきて、改めて気づいていたんだ。どの瞬間にも、桜色や金色に染まっていなくても、桜は桜だし金木犀は金木犀なのにね」
 まぶしそうに目が閉ざされた。
「君はあの日まで、どこにでもいるただの同年代の生徒だった。アズが僕に声をかけてくれたあの日。星の名前を教えてくれたあの日から、君はアズになったんだ」
 空間をぎっしりと隙間なく埋めつくすほど光っていた星たちの名前を知れば、ひとつひとつ区別がついて秩序が見えてくるのじゃないかと思ったから星座をおぼえた。惹かれもしてないのに焦がれるようにむさぼるように。
 だけど。
 どれもこれも似たような点ばかりのなかで、君は特別だったよミウ。最初から。名前も知らないころから。

 やがて一番星が瞬いた。
 僕はつぶやくようにそっとくちずさんだ。

 Star light, star bright,
 First star I see tonight.
 I wish I may,
 I wish I might,
 Have this wish I wish tonight.

「ちっとも音痴じゃないじゃないか」
 ミウがまぶたをひらいて僕を仰いでいた。僕が決して歌わない理由を、苦手なせいだと説明したことをミウはおぼえていたらしかった。
「起きたの。うるさかった、」
「ううん。冷えてきたから」
 身じろぎしたミウは僕がかけた上着に気づいてありがとうとえくぼを作った。
「それで、アズはなにをお願いするの、一番星に」
 たずねられてもほんとうのことは教えられない。
 歌が上手になりますように。僕がそう応じるとミウは、もう叶っているねと笑った。横たわったまま小さく歌った。

 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are!
 Up above the world so high,
 Like a diamond in the sky.

 そろそろ夜が降りてくる。天井から数多の光が洩れて僕を刺しつらぬきにやってくる。
 瞳を伏せたら、まだ淡い闇にきらきら浮かび上がるミウのまなざしとぶつかった。
 僕は星を見る。星も僕を見ている。
 僕はたったひとりじゃなかった。


 starry
 星の多い。星明かりの。星のように輝く。

20080628
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