ふるふる図書館


「デネボラ、アルクトゥルス、スピカ、」
 脇からとつぜん僕の視界にさしだされた長い指が星空の写真をなぞり三角形を描いて、
「コル・カロリ、」
 春の大三角にひとつ星を付け足すと、指先の軌跡は菱形を生んだ。
「春のダイヤモンド」
 そこまで告げて白い手の主は言葉を、発したときと同様の唐突さでぷつりと切った。机に広げた図鑑から顔を上げると目が合った。繊細で神経質そうな手にふさわしい、知的で端整なおもだちがにこりともせず僕に視線をよこしていた。
 新しい季節。新しい制服。新しい学校。新しい教室。新しい同級生。見知らぬ隣の席の生徒、それがアズだった。




スターゲイザー




 学校の天文クラブにアズと入った。
 天体観測を行う場所は校舎の屋上。春の夜の底冷え対策にショコラ・ショーとブランケットを持ちこんで、初の参加に臨んだ。
 アズはちかちか瞬く星に見入っていて、横顔を眺める僕に気づかないらしかった。常に冷ややかなアズのまなざしはおそろしく深くて、近寄りがたさを帯びていた。出会ってすぐさま僕と行動をともにするようになったのは不思議だったし、ひそかな自慢でもあった。
 アズはどの星が好きなの。なにげなく質問を投げかけた。
「どれも、きらい」
 僕は不意をつかれて絶句した。淡々とこぼれた呟きに。星を結んで星座を教えてくれたアズ、自分の名前よりも先に星の名前を教えてくれたアズの返事に。
 アズが教えてくれたからこそ僕は星に惹かれていったんだ。辞書の「star」のページをひらいてことばを拾い出してはノートブックに書き留めるまでに。
 star cut、star dust、stardom、starfish、starfluit、starlet、starlight、starlit、starsapphire。
 アズの口から紡がれる星の名前はどれも光り輝いてきらきらしていたんだ。甘美な呪文や記憶の奥底で眠る子守唄みたいに。
 デネボラ、アルクトゥルス、スピカ、コル・カロリ。シリウス、レグルス、プロキオン、カノープス。カストル、ポルックス、ペデルキウス、リゲル、カペラ。デネブ、ベガ、ミラ、アルタイル、アンタレス、フォーマルハウト、アルデバラン。
 星がきらいだなんてまるで知らなかった、気づかなかった、見抜けなかった。僕が天文クラブに誘ったらあっさりうなずいたアズが。
 寄り添って見える星たちが実は何万光年も離れているなら、一枚の毛布にくるまっている僕とアズも隔たっているんだろうか、太陽とプロキシマ・ケンタウリくらいに。
「どうして」
 どうしてきらいなの。どうしてクラブに入ったの。僕の問いかけともつかないかすれたささやきに、アズは黙りこくって答えなかった。
 ショコラの入った白い陶器のマグがてのひらのなか急速に冷えた。消しゴムをかけたように空が霞んで、はじめて会話したあの日と同じく、星座をたどることができなくなった。

 天体観測の夜を境に、僕たちはてんでに下校するようになった。クラブに顔を出すためにひとり教室を出て行く放課後がしばらくつづいた。
「ごめん」
 またしてもアズの言動は出し抜けだった。帰り支度をすませ鞄を抱えて席を立った僕の上着の裾をいきなりつかんで、ごめんと繰り返した。
「ミウとけんかをしたいわけじゃない」
「ちがうよ。アズが嫌なら誘わないだけ。無理してつきあってくれなくていいよ」
 几帳面にアズの喉首を縛りつけているタイを見ながらぎこちなく言えば、アズは手に力をこめた。
「ミウとなら好きになる。たぶんなれそうな気がする」
「なにを。説明してくれないとわからないよ」
「きっとミウは、笑う」
 笑わないから話してよ。促すと、アズは一拍おいた。
「星がきれいだなんておとぎ話だ。近くで見たらちっとも美しくない。それに天文学なんて究極のペシミズムだ。宇宙のはじまりの姿をつきとめようとするんだよ、宇宙にも世界にも終わりがあると決めつけているんだよ」
 いつでもひんやりとした静謐な声で、硬質で的確で大人びた言葉を僕の耳もとに落とすくせに、真相は予想外だった。
「ほら、やっぱり笑った」
 ついうっかり頬をゆるめたのは、本心を打ち明けてもらえてうれしかったせいだけど、急いできゅっとくちびるを引き結んだ。全力で。全速力で、できるかぎり早く。
「星なんかきれいじゃなくていいんだよ。はるか彼方のものだもの。それにね、終わりなんか来ないよ、アズ。どうしても避けられなくていつかやって来るとしても、はるか未来のことだもの。僕たちはだいじょうぶ、ずっとだいじょうぶだよ」

 アズは僕を幼稚で救いがたいオプチミストと思っただろうか。
 だけど。アズに嘘をつくつもりはつゆほどもなかった。僕たちはだいじょうぶ。信念でも願望でもなかった。疑いの余地すらありえない僕の世界の法則だった。
 なのに。終焉は訪れた。
 他国から不意に流星群が落とされた夕間暮れ、僕の町は壊滅した。
 父が遺した研究所は地下に建てられていて、そこを住居がわりにしていた僕は無傷だった。地上に出た僕の視界から町は消え、かわりに瓦礫とちぎれた死体の山が累々と築かれていた。なにかが焦げたにおいとなにかが焼かれた煙と硝煙が充満していた。

 アズはかつて一度、終わりを見たという。
 壊滅した国を逃れてきたと、なんでもないような素振りと顔つきでアズは語った。蹂躙され、略奪され、虐殺され、踏みにじられ辱められた土地と人々を目撃したと。僕はアズの過去をそのときまで知らなかった。だから。世界は終わらないなどと、子どもじみた無神経な真剣さと真摯さで断言してのけてしまった。
 自分たちをとりまく世界の情勢の不穏さ危うさを、無関係なひとごとのようにぼんやりと捉えていた。海に沈んでいく陸、汚染されていく空気と水と土、絶滅していく種族、枯れていく緑、上昇していく気温、狂っていく社会、いかれていく秩序、異常が当然になっていく気象、退化し脆弱になっていく僕たちの器官、有害な毒素に蝕まれていくなにもかもすべて。うんざりするほど長いこと緩慢に破滅の道を歩んでいたから、日々届くそういうニュースは生活の一部となって僕を麻痺させ鈍感にした、そうでもなければあっというまに打ちひしがれて、やりきれなかったにちがいない。やわで非力なくせにこんな地に産み落とされた僕はなるたけ平和な日常を生きたかった、なにものにもおびやかされずどんなに悲惨なことが起きても笑みさえ浮かべてやりすごしたかった。それが強さなのか弱さなのか判別できない。ただ、アズを守れなかったことはわかっていた。
 廃墟を縫って進んでいくうち、求めていた姿を見いだした。白く秀でた額を血と埃とでまだらに染めて力なく横たわっていたアズは小さくたずねた。
「どうして来たの」
 アズを探しに。僕が告げると眉をひそめた。
「ばかだな外に出るなよ、君の住みかは安全だろう。僕にかまわないで。生き延びろって伝えたはずだ。メッセージ、読まなかったの」
「読んだよ、でもアズと一緒じゃないと嫌だ」
 アズは咳き込み、くちびると押さえた手の甲を汚した。すぐそこまでやってきていた夜がすばやく塗りつぶしたのに僕にはくっきりと真紅に見えた。嗄れた声はますます消え入りそうになり、聞き取ろうと懸命に耳を寄せた。
「いいんだよ。僕はもうこのからだを置き去りにして行かないといけないんだから」
「僕のことも置き去りにする気なの。冗談言うなよ」
 すると、あざやかな滴りに彩られた口もとがかすかにほころんだ。ばかはそっちだ。まじめに話しているのに。よりにもよってこんなときに。あどけない笑みを浮かべて。
 めったにないアズの表情を見たとたん、心臓も咽喉も肺もぎりぎりと絞られた。痛みの激しさに神経ごとねじ切って捨てたくなった。はじめてアズの死という可能性が僕の前に立ち現れて僕を外側からも内側からもさんざんに締め上げた。アズのひどい状態を目の当たりにした瞬間でさえ、アズがこの世から消えることなどまるで思いつきもしなかった、のに。
 お願い笑わないで。そんなふうに微笑まないで。そっけなくて仏頂面で無愛想ないつものアズでいて、生きてよ。ばか。
 言葉もまぶたも閉ざして動かなくなったアズを連れて帰った。打ち捨てられた建物にみえても僕だけは知っていた、研究所の機能はまだ生きている。父の実験を見たことがあった。からだが損壊した瀕死のモルモットが息を吹き返したところを。
 透明な容器にアズを安置した。カプセル内でまるまった姿勢は胎児そっくりだった。
 宇宙卵。なかには羊水によく似た絶対零度の新品の宇宙が詰まっている。そのうち爆ぜて拡散する。古いこの世を塗りかえていく。卵につながれている管や機器はアズの胎盤だ。
 ああそうだ、アズに貸してもらったヘッセの「デミアン」にあった。鳥は世界という名の卵を破ってはばたいていく。アズは孵化する、この卵の殻を、腐敗しきった世界を壊して。生まれ直したときにはもしかしたら僕のことを忘れているかもしれない。それでも。
 新しく出会えばいい。新しくはじめればいい。

 ――もうだめだよ。ここはもう終わる。君だけでもどうか無事に生き延びて。AZ――
 アズが最後に僕の端末に向けて送ったメッセージ。
 署名する際、AZと綴るアズは気づいていただろうか。その名は、はじまりと終わりを示していること。キイボードの配列だって、AとZは近しいこと。
 アズの回復を待ちながら、アズと文具店で買ったガラスペンとヘリオトロープのインクを使ってノートブックに文字を連ねた。
 starry sky、starry night、planet、comet、meteor、asteroid、satellite、spangle、twinkle、glitter、shine、sparkle。
 AZ、AZ、AZ、AZ、AZ。

 ミウ。
 ほんとうの星は、すみれや宝石や金平糖とはまったくちがう、ちっとも愛らしさのない、ぎらぎらと熱く燃える巨大な塊だ。ほんとうの宇宙は、音も風もなくて、暗くて寒くて凍てついていて、すがる場所もないほど広くて、そのくせ年老いて、多くの命を巻き添えに死んでいく冷たく孤独な空間だ。だけど君があまりに無邪気に焦がれているから。夜空に無心に魅せられているから。星の図鑑にうっとり見とれているから。憧れに満ちた目を向けて僕に語りかけるから。真実を話すのをためらった。
 今だって君はケースにはりついて、両てのひらを押し当てて。ガラスごし僕に瞳を凝らしている。
 ねえミウ。
 この地はとうに終わったんだよ。僕たちの文明は微塵に壊れてすっかり滅びた。
 僕が目をさましたら、君は事実に気づいてしまう。片時も離れず僕のそばにつききりの君が外へ出る日が訪れてしまう。ほんとうの姿を知ってしまう。
 僕とふたりきりでも、新しく世界を創っていけるの。なにもかも新しくはじめることができるの。
 星が明かりを撒き散らす空を仰ぐとき、必ず僕の手をつないでくれた。まっくらな宇宙にたったふたり放り出されたような寄る辺なさを君は感じなかったの。僕はこっそりふるえていたのに。
 でもミウとなら夜空に向き合うことが怖くなくなった。僕の星がすぐ隣にいた。君はこれからも、誰もいない寒々とした闇のなかで僕を導いてくれるの。ミウ。

 アズ。早く目を開けて。
 寒いなら、怖いなら、心細いなら、手を握っていてあげるから、一緒に夜空を眺めようよ。
 たとえそこに永遠がなくても。それとも、出口がなくて迷子になって彷徨いつづけるあてどない無限が広がっていても。
 君は言ったね、遠すぎて光が届くまでに時間がかかるせいで目に映る星は実はとっくにすべて滅んでいるかもしれない、きらめく星々はいにしえの幻影、嘘っぱち、偽りかもしれないって。
 かまわない。アズと僕の存在が確かなら。
 僕は星よりずっと近い、光も音も熱も、星より速く伝えられる。君が僕に星をくれたように、姿も声もぬくもりもあげる。まなざしも言葉も吐息も気配も雰囲気も。星が君にくれないものは、僕が君にあげられる。だから、まぼろしなんかじゃない。
 ここにいる。僕は触れるほどそばにいるよ。アズ。

 今日も僕はアズを見つめている、星を見つめるように。


 stargazer
 星を見つめる人。占星家、天文学者。空想に耽る人、夢想家。

20080524
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