ふるふる図書館


親友は孤独



 仕事を終えて帰途につく。人いきれの立ち込める満員電車に揺られる。隣の吊革につかまる手をぼんやりと眺める。正確には見知らぬ人の手首に嵌まった腕時計を。腕時計はデジタルで、一秒ごとに文字盤の模様が変わる。かつて同じデザインの腕時計をよく知っていた。大学生のころだ。
 小学校から高校まで、学級に溶け込むことができず友人もできない生活だった。冷ややかな学校に閉じ込められ、同級生からの無視や陰口という鋭いピンで手足やうなじを縫いとめられている時間は長く長く引き伸ばされながらも、祈りや呪いに似るほどに待ち望んだ終焉を迎えた。
 大学では講義のあるときだけキャンパスにいればよいからいくらでも孤独を満喫することができた。講義の合間には図書館に入り浸り書物を読み、あるいはあいている教室で居眠りをして過ごした。必要に駆られないかぎり口を利かなかった。自由だった。満足していた。誰もが自分に無関心でいること、興味を払わないこと、まなざしを向けないこと、自分を見捨ててくれることの心地よさに浸かってようやく落ち着いて呼吸ができた。
 講義のいくつかは大きな教室で行われた。学部も学科もまちまちな大勢の学生たちの誰がどこに座るかは、おのずと決まっていった。単位だけ取れればよいという学生は、友人たちと一緒にホワイトボードの文字すら読めないような後方に席を占めた。熱心な学生は、前方に位置を占めてノートを取った。自分はというと前方のドアのすぐ近くと定まっていた。誰とも接触せずに教室に出入りできた。後方の学生の私語も届かずに済んだ。
 ひとつ置いた左隣にいつも座る学生がいた。自分と同じようにいつもひとりでいた。右の手首に腕時計をしていたから文字盤がよく見えた。講義が退屈になると一秒ごとに変化する文字盤を見つめて遣り過ごした。
 常にひとりでいたからその学生の存在は目についた。講義がまだ始まらない教室や図書館、カフェテラスの片隅で静かに読書をしていることが多かった。
 孤独は表情や声帯を削り落とし蝕んでいくものだ。顔の筋肉を動かさずにいるとすぐさま筋肉は退化する。声を出さずにいるとたちまち声帯は衰える。一人暮らしをすると独り言が増えるものらしいが自分にはあてはまらなかった。心を寛がせ憩わせる安らかな友のはずだった孤独はいつしかひどく自分の筋力をそぎ、自分を作り変えていた。
 しかしその学生の表情は淡々としてどこまでも澄明だった。孤独は息をするように自然な体の一部らしかった。この人は自分と違うのだと、何かが絶対的に負けたと思った。その学生が特別目に立ったわけではない、自分が自然に視線で追いかけていたのだった。にもかかわらず正面から顔を見たこともなければ声も聞いたことがなく、学部も学科も名前も知らないのだった。横顔と腕時計だけを記憶に刻めばよかった。
 あるとき講義の際に鞄をひらき、筆記用具を忘れたことに気がついた。ひとつ席をはさんだ隣では、あの学生が黙々とシャープペンシルを走らせていた。話しかける好機だった。書くものを貸してほしいと。しかし結局言い出せなかった。不審に思われないかひたすら身を縮めてうつむき、教授の話が終わるまでの時間を耐えた。どうか相手が気づかないようにと願いながらもどこかで、優しい言葉をかけてくれないかとほのかに期待する自分が浅ましかった。いびつに屈折した行き場のない感情は肩にべったりと貼りつき重くのしかかって離れなかった。
 出すことに慣れていないかすれた声を、動かすのに慣れていない歪んだ口もとを、頼みごとに慣れていない硬すぎる口調を相手に晒すことに怯えた。それ以上に、相手ももし自分と同じだったらという想像の方が怖かった。もしかしたら友だちになれるかもしれないなんて考えたくなかった。そうなってしまったら相手を変容させてしまうだろう、自分にそんな価値があるはずがなかった。濁った自分が、清冽で透き通って鋭い孤独よりも尊い存在になれるわけがなかった。あの人の孤独との蜜月を奪う勇気など持てなかった。自分は負けていた。あの人の孤独に、それから自分の孤独に。愛していたのは確かだったけれど。
 目を見交わすことも挨拶すらないまま大学を卒業し、社会人になり、集団にとけこみ人と付き合い話し笑うことをおぼえた。表情と胸に巣食う不透明で淀んだ過去と影を少しずつ散らしていくことに成功していた。
 それなのに。
 今隣に立つ人の腕時計が、一気にあのころへと引き戻す。あの学生は左利きだった、この人もそうなのだろうかと考えただけで動悸がうるさくなる。
 この人があの学生と同一人物だという確率は著しく低いのはわかっている。だけどそれでも確かめなくてはいけない。
 万が一同一人物だったら、あのころと変わってしまった自分はどう思われるだろう?
 あのころの自分は話したかった、ほんとうは話したかった。結局横から、遠くから四年間ひたすら眺めて終わってしまった。
 今は? 今も?
 懐かしい文字盤を見つめる。時間は過ぎゆく。過ぎゆくはずなのに。

20090222
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