ふるふる図書館


さよなら、テディベア



 夜は怖かった。
 お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、さっさと眠りについてしまう。
 たったひとり取り残されてぼくは、ひたすら夜が通り過ぎるのを待った。
 昼間は聞こえなかったひそひそ声、うなり声が耳の中でひびく。
 机や本棚がただの真っ黒い影になっておおいかぶさってくる。
 目をこらしても、ちらちらとノイズのまじった暗闇。
 同じふとんにくるまっているテディベアに、いつもぼくはぎゅっとしがみついていた。
 ふわふわでふかふかのテディベアが、ある晩ぼくにささやいた。
 ――だいじょうぶだよ、怖くないよ――
 ぼくがびっくりして顔を上げると、茶色のくまのぬいぐるみではなく、人の姿がそこにあった。
 夜目にも、とても美しい少年だとわかった。
 寝ぼけているのかとぼくは思った。
 ――だって、あんなとぼけた小ぐまの姿のままじゃ、こうしてきみを抱きしめてあげることなんてできやしないだろう――
 少年は、ぼくの耳に口をつけて低く言った。たしかにくすぐったかった。
 気づけば、ぼくの体は少年の腕にすっぽりと包みこまれているのだった。
 綿をつめたぬいぐるみのときには聞こえなかった鼓動がぼくの肌を打ち、なんだかほっとした。
 するととろとろと眠くなってきた。
 ――夜はいたずら好きなんだ。ぼくは夜のともだちなんだよ。だから、ぼくのともだちのきみを夜がおびやかすことなんてない。ずっとこうしているから、安心してやすむといいよ――
 いい夢を、という少年の言葉にぼくはうとうととまどろみながらうなずいた。
 おやすみ、テディベア。

 ぼくは、家を出て寮生活をすることになった。
 すっかり荷造りを終えてがらんとした部屋にぽつんと座っているテディベアが、ただひとつ気がかりなことだった。
 連れて行くことはできない。
 でもここに置いていったら、どんな扱いを受けることか。
 父さんも母さんも、ぼくがもうテディベアを持つにはふさわしくないと考えているんだ。
 さびしい夜、心細い夜、寄り添って眠ってくれたテディベア。
 つらい夜、悲しい夜、抱きしめてなぐさめてくれたテディベア。
 闇に現れた少年は、それとも、夢か幻だったのだろうか。
 少年の手にやさしく体をなでられているうちにぼくは眠りに沈み、目ざめると何ごともなかったように朝日を浴びて、小ぐまのぬいぐるみがかたわらに横たわっていたんだもの。
 そのうちに、ひとつのベッドでテディベアと一緒に寝ることもなくなっていた。
 でも、あの感覚はおぼろげにおぼえてる。
 しなやかな腕、ほおをうずめたなめらかな胸、規則正しい心音。
 もしかしたら、もう一回、会えるかな。
 ぼくはその晩、久しぶりにテディベアを抱いてベッドに入った。
 夜よお願い、もう一度ぼくにいたずらをしかけてよ。
 祈るようにぼくは待ちわびた。
 時計の針がこちこちと何度もめぐったころ。
 ――おぼえていてくれたんだね。うれしいよ――
 少年が微笑んでささやきかけてきた。
 ああ、やっぱりきみだったんだね。
 ぼくは懐かしくて胸がいっぱいになった。
 ――この姿でなく、女の子の姿で現れたほうがよかったかな――
 ぼくは赤くなって、どうして、とたずねた。
 ――きみはもう、誰かに守られるより誰かを守りたい、なんて考えるようになったんじゃないかと思ったのさ――
 ぼくは小さくかぶりをふった。
 ぼくはきみがいいんだ。
 ――ありがとう、でもそろそろお別れなんだよ、きみ。わかってるよね――
 少年はぼくの髪をなでた。ぼくはやっぱり小さくかぶりをふって、胸に顔をうずめた。
 困ったように笑う気配がした。
 ――だいじょうぶだよ。きっとまた会えるから。今夜はここでずっとこうしているから、ゆっくりおやすみ。よい夢を――

 ぼくはテディベアと別れて寮に入った。
 同室になったのは、まだ幼さとあどけなさを残した少年だった。
 ぼくたちのベッドは、窓辺に並べてしつらえてある。
 幾日かたち、夜中にぼくはふと目をさました。
 背中を向けて、同室の少年が寝ている。肩がちいさくふるえていた。
 そっと近寄って声をかけると、一瞬その小柄な体がこわばった。
 ぼくはその手をさぐってにぎった。すがるようなまなざしが向けられる。
 あえかな月明かりに照らされた顔は、テディベアの少年にそっくりだった。
 夜よ、あなたはまたぼくにいたずらをしようとしているの。
 それとも、また会えるっていうあの子の言葉は、このことだったの。
 ぼくは、同室の少年の耳に唇を寄せて、小さく言った。
 夜は、怖くないよ。だって、夜はぼくのともだちだから。
 額にかかる髪をかきあげて、華奢な体を抱きしめた。
 さびしかったら、いつもこうして眠ってあげるよ、と告げると、はにかんだその顔がしずかにぼくの胸に伏せられた。
 すがるように寄り添って、もたれてくる重みを感じながら、ぼくは心の中でつぶやいた。
 さよなら、テディベア。

20060407
INDEX

↑ PAGE TOP