ふるふる図書館


木琴



 澄んだ大気をふるわせて、木琴の音がひびいている。
 高い音は短く鋭く、低い音はおだやかに、ゆたかなまろみをおびて。
 ふるえに堪えられなくなった花びらが、庭の巨木の枝からひらひらと落ちてくる。

「ねえ、木琴って英語でなんていうか知ってる?」
 マレットをにぎっていた小さな手をとめて、不意に子どもが問いかける。
「xylophoneっていうんだって。Xではじまることばは少ないから、おぼえたの」
 透きとおった声を伝って、ほろほろところがるようにくちびるからこぼれた単語。
 微笑むようなかたちをつくる“ザイ”。
 くちづけするときのように口をすぼめる“ロ”。
 そのままややくちびるをひらく“フォン”。
 白くかがやくほそいうなじに、かよわい産毛が金色に光っている。
「聞いてるの?」
 返事がないことに業を煮やしたのか、ふりかえったそのまつげも、ひるさがりの光を浴びて金色に染まっている。
 もちろん、聞いてるよ。
 にっこり笑うと、安心したように木琴に視線をもどし、また暗譜で弾けるかぎりの歌を奏で始める。
 土蔵の中にあった木琴は、トランクのようなケースにおさまっている。子ども向けではあるが、子どもだましではない、この本格的な楽器の来歴は謎だ。
 やみくもに広い古びた我が家には、誰がどこで入手したのか不明なものがどっさり眠っている。
 身寄りがなければたしかめるすべもない。
 捨てる気もおこらず、雑多なしなじなに囲まれて起居している。
 子どもは訪れるたび、縁側で木琴を演奏している。
 学校では、木琴にさわる機会がないのだといって。

 そのうち、子どもはぱったりと姿を見せなくなった。
 そういえば、と記憶をたぐる。
 あの子の母親だというひとが、血相を変えて我が家にやってきたことがあった。
 この家にはあの子のほかに、誰もたずねてこないからおどろいた。
 すさまじい剣幕でどなっていた内容の半分も、理解することができなかった。
 あの子に何かあったのだろうか。
 家から出ず、話す相手もいないから、あの子がどこに住んでいるのか知らない。名前さえもわからない。

 マレットを取り、そっと木琴にかざす。
 かるく打つとかるい音。強くたたくと強い音。
 ただ、知りたくなった。だから試した。
 あの子が楽器だったなら、どんな曲を奏でることができるのかを。
 やさしく扱ったときの音色。手荒に接したときの音色。
 甘い砂糖菓子がとろけくずれるような発音で、ザイロフォン、と教えてくれたくちびるから歌があふれて、神々しいほどかがやかしい午後の静けさを揺さぶる。
 声に合わせて、花がひたすら、あの子の上に降りしきる。
 それはほんとうに、切なくなるほど美しい光景で、何度も何度も夢にみる。
 自分もまた木琴になって、あの子に打たれるところを思い描く。
 どんな演奏をしてくれるだろう、自分はどんな音色なのだろう。幾度も幾度も空想する。
 世界中のすべての人間に見捨てられた、荒廃しきった屋敷の中で、ひとり。

 あの子はあれきり、現れない。

20070603
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