ふるふる図書館


 ママは昔、自慢のブルネットだったんだって。だからぼくに会う人誰にでも、少女のころの自分とそっくりだって言う。恥ずかしいくらいに。
 ぼくを見たみんなが、その言葉に納得する。顔に関しては、だけど。
 髪はパパゆずりだった可能性もあるけど(だってママがあんなに執着するんだもの)、そのへんは知らない。ママだって、誰がぼくのパパなのかはっきりとわからないんじゃないかな。
 ぼくが一緒に暮らしているのは、ママと、妹のサラ。サラのパパと僕のパパが同じなのかも、ぼくに確かめる方法はない。サラはふわふわの赤毛だ。




ママ、アイラブユー




 ぼくはひたすら走っていた。髪を振り乱してるぼくをママが見たらきっと金切り声でキイキイわめくと思う。
 この街のことは知り尽くしている。どこをどう抜ければ追っ手を撒けるかも。生まれてから今までずっと過ごしてきた場所だ。ごたごたしたごみだめも、狭苦しい路地も、一見目につかないビルの細い隙間も、猫のようにするりと通り抜けることができる。
 それでも男はしつこかった。ぼくは懐の重みにそっと触れた。あいつの必死さをみると、よほどいい稼ぎをしたのかも。だったらなおさら手放せない。
 だんだん息が切れてきた。昨日から何も食べてないのに酷使された体が、中から外から悲鳴を上げた。
 古びたビルの外階段を駆けのぼったら、屋上で足がもつれて倒れた。
 男がぼくにとびかかり馬乗りになった。首筋に手を伸ばされて、とっさに奥歯をかんだ。
「お前、女か」
 ぼくのあごをつかんで自分へ向けた男の力がわずかに緩んだ。その隙を逃すだなんてよほどのヘマだ。またがっていた男の下をくぐり抜け、縁まで走った。足元をためらいなく蹴って下へと身を躍らせた。
 鈍い音と衝撃がぼくを包んだ。
「へえ。空からガキが降ってきた」
 聞き覚えのある声がした。ぼくの背を受け止めたテント小屋の屋根から地面に降り立ったぼくをのぞきこみ、ヒュウ、と口笛を吹いた。
「ガキじゃなくて天使さまだ」
 リュウはいつだってぼくをからかう。
「黒髪の天使なんているの?」
「世界は広いんだぜ。いるんじゃねえの、スリでもさ」
 膨らんだ懐をとっさに隠すと、いらねえよお前の獲物だろ、とリュウはつまらなそうに鼻を鳴らした。ぼくは呼吸と体勢を整えながら振り向いた。
「逃げ切れたの、かな。お人よしだよね、女だと油断して手加減したんだよ、あいつ」
「傷物にしたら商品価値が下がるだろ」
 キズモノ。そんな言葉、今さらすぎて呆れるくらい懐かしい。
「だったらドレスを着ることにしようかな」
「やめとけ、無駄に危険が増えるだけだろ」
 ムッとした。ささいな台詞にもむきになるくらい、ぼくはガキなんだ。
「ぼくだって裏のことくらい少しは知ってる」
「だろうな。お前の腕は天才だし」
「泥棒の?」
「往生際の悪い逃げっぷりの」
 言い草が、いちいちぼくの胸につっかかった。
「あいにく逃げ方はあんまり練習してないんだ、見つかって逃げるなんてめったにないからね。だけど、今日は」
 ぼくは上を仰いだ。男が追ってくる様子はない。それもそうだ、ぼくが飛び降りたところは相当高い。数を知らないから勘定できないけど、大人だろうが子供だろうが、普通は足がすくむはずだ。
「はは、安心しな。あいつが追っていたのはお前がドジ踏んだからじゃない。お前が見ちゃいけねえモンを見たせいだよ」
「そう。ぼくの腕が落ちたわけじゃなかったんだね?」
 急に晴れ晴れとした気分になって、それからくすりと吹き出した。
「あいつ、ぼくを捕まえそこねるわ財布まで取られちゃうわ、こういうのを踏んだり蹴ったりっていうんだよねえ?」
「お前さ。自分が何を見たか知りたくねえのかよ?」
「教えてくれるの」
「さあな」
「ほらやっぱり。見たらいけないものなんてごろごろしてるじゃない。珍しくもないじゃない。興味ないよ別に。
 ああそうか、身を隠さないといけないね。じゃあさ、やっぱりドレスかなあ。ね?」
「わかってないだろお前」
「わかってるよ」
「お前みたいなのは高値で売れるんだよ。スラムのガキとは思えねえからな」
「スラムじゃなければどこなの」
「金持ちのボンボンみたいな顔してるだろ。育ちのいいお坊ちゃん。清楚で無垢で、虫も殺せないような」
 しばらくあっけに取られたのち、ぼくはわざとらしいほど体を折って、弾けるように笑いこけていた。
「やだもう、本気なのリュウ。真面目な顔して何を言い出すかと思えば。変なの!」
「笑うな、馬鹿」
 頬をわずかに染めてリュウがにらみつけた。
「だっておかしいものはおかしいよ。とっくにわかってるよ、ぼくの行き着く先なんてさ。顔がママにそっくりなんだから、ふさわしい居場所だってママと同じだよ。ぼくのママ、知ってるよね?」
 いつもちがう男、きしむベッド、どろりとまつわる生ぐさい匂い、水を含んで濡れたような音、シーツを蹴り上げるペディキュア、無造作に散らばるドラッグ、落ち着きなくキラキラ光る鱗粉めいたミニドレス、派手な口紅、目に染みる煙たいタバコ、むせかえるきつい酒、頭にずきずきまとわりつく強い香水。いつかそれらにぼくは捕まる。
 笑いすぎて苦しくて涙をにじませ肩をふるわせながら続けた。
「それがわかったときから、ぼくはどんな高い場所も怖くなくなったんだ。あんなところからだって跳べるんだよ」
「だったらさ、お前は、なんで逃げてんだよ」
「ぼくが?」
「何もかも平気そうなふりしてさ、何も怖いものなんかないふりしてさ、本当は諦め悪く逃げまわってるじゃねえか」
「そんなこと」
「認めてみろよ。あの女から自由になりたいって」
「そんなこと……っ」
 リュウが銃口をぼくの鼻先につきつけた。獰猛で残酷な、ぼくをなぶる目をするくせに、口調はどこか甘くてやさしい。それはぼくの願望だったんだろうか。
「あの家から逃げたいって言ってみろよ、なあ」
 ぼくはママを愛してる。
「言って……言ってどうなるの。君が救ってくれるとでも?」
 リュウの指先に力がこもった。まだまだ子供じみた手に不釣合いな拳銃は、それでもリュウのためらいを誘うことはないらしかった。
「カイル」
 リュウがぼくの名を呼んだ。その声はなぜだか不意に、ぼくの涙腺をじわりと犯し、甘ったるく腐ってとろけていく南国の果物みたいに柔らかに音もなくゆるゆると崩しほどいていった。
「ほらカイル、なんでそんな顔をする?」
 リュウ、君が、ぼくをここから連れ出してくれるなら。それもいいかもしれない。
 ほんのわずかに唇をほころばせ、その一瞬を待とうと瞳を閉じた。
 同時にリュウが銃声でぼくを貫いた。

 背後で、男が倒れる重い音。ぼくの追っ手だ。
「こいつは、おれの組織の標的だったんだよ」
 リュウはもう一度発砲した。完全に仕留めたみたいだった。
 ぼくは下を向いていた。耳をかすめた銃弾は、ぼくの髪を一房散らしていった。つややかな黒がこぼれていた。はらはら、はらはら。透明で目に見えない何かも一緒に、ぼくからもぎ取られて息絶えて、静かにとめどなく落ちていくのを眺めてた。
 鏡を見なくてもわかった。たぶんひどい髪型になってるって。ママが嘆いて、ヒスを起こすくらいに。
「リュウ。ぼくは家に帰れなくなっちゃった」
 硝煙にまぎれた小さなつぶやきを、ターゲットの死を確認していたリュウはそれでも拾い上げた。ぼくのもとへと戻ってくる。
「だろうな。まだ狙われてるかもしれねえし」
「ぼくがいなくなったら、ママとサラが生活できなくなっちゃうよ。……ねえ、リュウの組織に入ったら、ママと妹の面倒、みてもらえるかなあ」
「お前が?」
「ほかに行くあて、ないもの」
「組織が何かわかってんのか? さっきみたいな目に遭うことなんかざらだ。それでもいいのか。お前、死ぬところだったんだぜ?」
 すがりつけるようにさしのべたと見せかけて、その手はまるでそんな気なかったんだね。だけどほんの束の間でも、ぼくの心臓は感触をおぼえてしまった。ぼくの内部にまで吸いついてからめとっていくような感触を。
 誰の厄介者にもなりたくないのに。
「だけど、なんであいつ、お前をただ追っかけまわすだけで殺そうとしなかったんだろうな? 見たところ丸腰だ。武器になりそうなモンなんて何ひとつ持ってねえ」
 ぼくは懐から収穫をつかみ出してみせた。財布のほかに、バタフライナイフとハンドガン、おまけに弾丸。
「お前、あいつからこれを全部盗んだのか」
 ぼくがうなずくと、まじまじと見つめていたリュウはクッと声をもらし、次には盛大に笑い出した。
「カイル、すげえな、お前。やっぱり天才だよ、スリの天才だ」
 心底愉快そうに黒い目を輝かせて、ぼくの肩を何度も叩く。リュウのそんな様子を見るのははじめてだった。ぼくと年のそんなにかわらない子供なんだと改めて気づく。ぼくも笑った。おなかが痛くなるほど笑った。こんな気持ちになったの、いつぶりだっただろう、思い出せない。そんな記憶なんかはじめからなかったかもしれない……。
 リュウはようやく真顔になった。
「わかった。組織には、おれも口ぞえしてやるよ。でも……今日はただ逃げるだけだったけど、これからは敵の息の根をとめることになるんだぜ、お前が手にしてるその銃で。後悔しないのか」
「しないよ」
 後悔なんか、しない。しないって決めた。
「ねえリュウ。組織って勉強も教えてくれるの」
「ああ、まあな」
「本も読めるようになるの? ぼく、調べたいことがあるんだ」
 何を、と尋ね返すリュウにぼくはにっこりしてみせた。
「黒髪に黒い瞳の、日系の天使がいるかどうかってこと。ここに落ちてきたときに君がぼくの顔をのぞきこんだでしょう。後ろから光がさしてて、髪に輪っかがかかって、君こそ天使みたいだったよ」
 リュウは迷惑げに眉をしかめて、ぷいとそっぽを向いた。
「嘘だろ。冗談言うなよ、ばーか」
「世界は広いんだから、いるかもしれないよね、殺し屋の天使も」
「そんなはずあるか。うるせえよ、黙れ馬鹿。馬鹿カイル」
 ぼくはくすくす笑いながら、赤くなってる顔を確かめたくてリュウのかたわらに歩み寄った。

 ぼくの中の嘘も本当も生き延びることなく死んでしまった。ひらひらとはがれ落ちたたくさんの死骸をひとつひとつ大切に拾って、土を掘って、葬って、弔って。ぼくは生まれ育った家を後にする。
 だけど、これだけは真実。
 ママ、愛してる。
 酒に酔ってぼくをぶつママも。ドラッグにおぼれてぼくの首を絞めるママも。タバコの火をぼくの腕に押し付けるママも。マニキュアと血に染まったぬめぬめと赤い長いとがった爪をぼくのうすっぺらい胸に突き立てるママも。すべてが終わった後、ぼくを抱きしめ髪にいとおしげに頬ずりして泣くママも。
 ああそうか。ママはやっぱりすばらしい髪をしていたんだね。ぼくの髪はママの中の少女を、少女との蜜月を裏切らなかったんだね。
 ママ、心から愛してる。
 なのに、ぼくは、どうしてママとちがう道を選んじゃったんだろうね。どうしてママを置いていこうとしてるのかな。
 愛してる。サラとママの幸せをいつでもどこにいても願ってる。バイバイ、ママ。




***
「雨のち曇りのち晴れ」の舘 里々子さんの掌編「15グラムの圧力」。ひりひりと焼けつくように重く切なく刹那的な雰囲気に痺れ、「このお話をもっと読みたい、いやいっそのこと自分で書きたい」と図々しくも里々子さんに申し出たところ、こころよく応じていただきました。そんな経緯で生まれたのがこの話です。
原作の空気を引き継げたかどうか不安ですが、とても楽しく作ることができました。里々子さん、どうもありがとうございました!

20080603
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