このままもう少しだけ
公園をねぐらにしている黒猫は、実の姿は王子さまなのです。
そのことは、王子さましか知りません。
何しろ、王子さまが悪い魔法使いに呪いをかけられて猫の姿にされたのは、もう何百年も前の話なのです。
ちらついた雪が王子さまの耳をかすめ、くすぐったくて首を振ると、かたわらにいた娘がくすくすと笑いました。
やさしい心根を持つ、孤独な娘でした。
貧しくもありました。
自分の住まいにいても、部屋をあたためることができないほどです。こんなに寒い日も、外で猫を抱いて暖を取るほうがましなのでした。
娘は王子さま相手にいろいろなおしゃべりをしました。ひとりで暮らしていることも、お金がなくてアパートを追い出されることになりそうなことも。
「なんて賢いの、お前は。わたしが話すことをみんなわかってくれるみたい」
娘は王子さまに回した腕に力をこめます。
すると王子さまは、小さな体を突き破らんばかりに、自分の内側から何かが満ちあふれてくるのを感じるのでした。
遠い昔のことを、ようやく王子さまは思い出しました。
「愛する者の腕の中で、お前の呪いは解けるだろう」
確かに、魔法使いはそう言いました。
百年もたつと、猫でいるのも悪くないと思い、王子さまは以前の姿に恋しさをおぼえることもなくなりました。
かしずかれて育ち、きびしい教育を受け、両親に甘えることを許されず、人を愛するということをまったく知らずにいた王子さまのことを、魔法使いは見抜いていたのでしょう。
ですが今、偽りの姿を突き破り、ほんものの王子さまが目ざめようとしているのでした。
「人の姿に戻れたなら、この娘を助けることができる。猫ではしてやれることなど何もない」
しかし、王子さまはこうも考えました。
「人になれたからといって、何がしてやれるのだろう。わたしが何を持っているというのだろう。金銭を得るすべすらも知らないのだ。
ならば、こうして娘をあたためて話を聞いてやるのが娘のためではないか」
王子さまは、目をそらしました。ほんとうは娘のひざの上で、娘の胸の中で、ふたりきりですごす至福の時間を捨てたくないのだという事実から。
人間に戻ったら、そんなことはしてもらえないでしょう。娘はおどろいて逃げてしまうでしょう。王子さまは服一着とて持っていないのですから。
だから、やさしく抱きしめられて金色の瞳を閉ざし、甘えてのどを鳴らしつつ、王子さまは心の中で同じことばを繰り返すのでした。
このままもう少しだけ。
明日になったら、この姿をきっぱり捨てる。
だから、今だけはこのままで。
雪が降りしきるいつもの公園で、王子さまは待ちます。
今日こそは娘の前でもとの姿に戻ろう、不幸な娘のために力を尽くそうと固く決意して。
ひたすら、はじめて愛したたったひとりの娘を待ち焦がれます。
娘が資産家にみそめられ、遠くの豪邸に住みこみで働くことになったことも、もう二度とこの町に帰ってこないことも、王子さまが知るよしはありませんでした。