ふるふる図書館


百万葉の写真



 君の指は稚魚のような白さと細さをもって、頼りなげに黒い箱に絡みついていた。不似合いな、無骨でごつごつしていて重厚なその機械との対照が、手の華奢と痛々しさをますます際立たせていた。
 それでいながら、君は巧みに機械を操った。からくり仕掛けみたいな、緻密で正確な動きを見せて、あまたの写真を撮り続けていた。
 朽ちているもの、滅びつつあるもののみを印画紙に切り取る君に、理由をたずねたことがある。君は、いにしえの希臘の彫像を思わせる、あえかな微笑を静かに口元に刻んだだけだった。
 透きとおるほどにひよわな肌は、かつては小麦色の健康さと活発さを主張していたものだった。いつのころからか、君は錠剤が常に欠かせない体になっていた。
 君を蝕む病の名を、僕は詳しく知らなかった。君が助かる見込みはない。ただ僕の頭を占めるのは、そのこときりであったから。
 のびのびと駆けまわってばかりだった君は、かつては欠片ほどの興味もなかった写真撮影に打ち込むようになった。衰えの進行と比例して、偏執的な熱狂はいよいよ高ぶる一方だった。

 先日、たった一度だけ、君はカメラ越しに僕をとらえた。
「君を撮ってもいいだろうか」
 躊躇いがちな問いかけに、一も二もなく快諾した。
「ありがとう。君の写真なら、僕はずっと大事にするよ。たとい棺に入っても手放さない」
 僕はレンズの前に姿をさらした。照準を合わせたピストルにズドンとやられる時は、こんな心地がするのだろうかと考えた。
 人目を盗んで甘露を口に含んだような感覚が、ひたひたと後ろめたく胸裏を満たした。

 君には感謝している。僕の我儘に付き合ってくれて。してもしてもしきれない――居住まいを正して、君は僕にそう告げた。廃屋の外では、歌い手の短い命を燃やし尽くす蝉時雨が絶え間なく降り注いでいた。
「何を言うのさ、君が自分で旅の支度も手配もできるはずなかろうに」
 僕は冗談めかしてこたえた。あちらこちらの廃墟を巡って旅する君を、ひとりにできよう筈がなかった。
 本当に、申し訳ないと思っている――君はわななくまつげを伏せて低く呟いた。
「君とずっとこんなふうに旅を続けることができたら、どんなにいいだろう。いつもそう願っていた」
 どこか痛むのか、苦しいのか、と僕が問うと、君は首を横に振って否んだ。
 落ちる沈黙を、君がぽつりと断ち切った。
「僕は、百万葉の写真を撮るために旅をしていた」
 儚くとけてしまいそうなあわあわしい笑みを浮かべて、一葉の写真を示し、これが百万葉目だとひそやかに告げた。
 しどけなく蔓延り繁茂する夏草。まぶしい光に漂白された景色。
 君は窓の外を指した。涼やかな幽愁と死の匂いに包まれた室内と裏腹に、荒々しく猛々しい生命力が息苦しいほどみなぎる庭を。
「そう、ここだよ。せんだって君を撮った場所だ」
 手元に目をこらしたが、僕はどこにも写っていなかった。いぶかしむ僕の視線を受けて、君は口唇を噛みしめた。
「待てど暮らせど、とうとう君は帰ってこなかった。だから僕はほうぼう探した。足取りを追って百万葉の写真を撮って、どこにも君がいなかったら諦めようと決めたんだ」
 ああ。そうか。
 僕は死んでいたのだ。疾うに。
 あちらこちらと彷徨い歩き、荒廃した光景を探しては写真に焼きつけることを好んでいた僕は、旅の途中で倒れ、誰にも知られずこときれたのだった。
「だのに、君は戻ってきてくれたね。僕のために。僕のもとだけに。眠りもしないで」
「済まない。我儘なのは、僕のほうだった。君の命を削って、今生に僕は僕をつなぎとめていたんだ。君の精を喰らって留まっていた。なんて未練がましいんだろう。僕の所為で君はそんなに」
 色を失い痩せてしまった君の頬に腕を伸ばすも、触れることは叶わなかった。君の涙が僕の指先のかわりに、音もなく滑り下りていった。
 僕は事実を諒解した。この世のものでない僕は、君にさわれやしないのだと。死人であると気づいた以上、君の隣にいられやしないのだと。
 絡めることができるのはまなざしだけ。交感することができるのはこころだけ。
 だがじきに、どちらも不可能になるだろう。
「僕が消えれば、君は元どおりになるんだね。丈夫で壮健な君に返れるんだね」
 レンズを向けたあの瞬間、君は僕を殺してくれた。しとめ損ねず、確実に。ほかならぬ君にとどめを刺されたならば、唯々として偽りの身を手放そう。
 君が祈りのように固く握り合わせた手が、こまかく痙攣した。
「やはり具合が悪いんじゃないか、今、薬を」
 トランクをひらこうとする僕を、君は制止した。
「錠剤は切れている」
 そんな――。
 うろたえる僕にゆるやかに笑みをこぼした。
「もう、飲まない。君を探し当てることができたから、要らないんだ」
 別の写真を取り出して、九十九万九千九百九十九葉目の写真だと僕に教えた。
 この世のものとはとうてい思えない褪せたおもざしが、この庭にたたずんでいた。まぎれもなく僕だった。君はパラフィン紙めいたうすいまぶたを束の間閉ざし、ささめく声を喉からそっと押し出した。
「ようやく見つけた。ここが君の最期の宿りだったんだね」
 よろぼう足を踏みしめて、君は濡縁を越え、庭に出た。
「君はここにうずもれているんだね。ずいぶん待たせてしまってご免ね。さあ、僕は来たよ」
 地と抱擁を交わすように、君はゆっくりくずおれた。僕の写真をきつく胸に抱いたまま。

 君の写真なら、僕はずっと大事にするよ。たとい棺に入っても手放さない――。
 この庭が、僕等の棺。
 庭そのものとひとつになった僕の体は、君の体をしっかりと受け止めて離さなかった。
 いつまでも。




***
 すでに閉じてしまっている作品なので、番外編というよりは、似通った装置と雰囲気を持つ別の話を作ったほうがいいのではないかと考えてこのようなものになりました。
 3周年記念アンケートの作品部門で25%の票をかちとりました「百年の庭」にちなんで書きましたが、ご満足いただけましたでしょうか。
 投票してくださったかた、ありがとうございました。

20070628
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