ふるふる図書館


百年の庭



 朝露にしっとりと濡れる庭に忍び入る太陽の灼熱は、まだなりをひそめていた。露草にとまった雫に、景色が逆さまに映りこんだ。
「おはよう。早起きだね」
 背後からのひそやかで涼しげな声にも花は震え、透明な珠を、中に拘禁した世界ごと重たげに下草へと落とした。縁側に腰かけていた僕は振り返り微笑んだ。
「おはよう。君こそもう起きてしまったの」
 君は音も立てずに歩み寄った。爪を丹念に切り揃えた爪先が、真っ白い足が、細い足首が、綺麗な形の骨格が浮き出る踝が近づき、君は僕の隣に座り、僕を真似て裸足を湿ったくさむらに触れさせた。
 寝間着の青藍の袷からのぞく、痩せ衰えた華奢な胸板のけざやかさが僕の網膜をまっすぐに射た。鳩尾におぼえるにぶい疼痛。
 寝ていなくていいの。懸念する僕に、君が静謐な笑みをこぼした。
「空気が爽やかで心地いいから。この季節は、夜から朝にかけてが唯一体が楽になれる刻限だもの。きっとこうして、僕は夜の眷属になってゆくのかもしれないね」
 君の黒髪がさらりと滑り落ち、透き通るようなうなじをあらわにした。
 甲高い鳥の鳴き声が間近で僕等の鼓膜を打った。縊られる際の叫びに酷似していた。

 君の容態は一向に快復しなかった。
 まばゆい碧空に雄々しく猛々しく立ちのぼる入道雲に背を向け、苛烈な陽光を障子がさえぎる小暗い部屋で、君を見守った。
 伏した君のまつげは、濃く長く影を目元に落としていた。骨のようにしなやかで軽やかで冷ややかで気高い、端整な手。胸が上下する動きはかすかで、僕はうちわで君をあおぐ手をとめては朱鷺色の唇の上にそっとかざして呼吸を確かめずにいられなかった。汗ひとつかかない君はまるで人形のよう。
 かまびすしい蝉時雨も、君の静寂の前には遥かに遠かった。
 ぬるい風に、時おり、風鈴がちりんと澄んだ音をひびかせた。
 昏々と眠りに沈む君の寝顔を眺め暮らし、毎日昼間が過ぎた。

 黄昏には白粉花が一斉に咲き、濃厚な芳香が噎せ返るほど強くたちのぼった。蚊取り線香を焚くと、草が燃える匂いが薄墨色の煙とともに、暮れなずむ天へゆらりと溶けた。
 深緑の渦巻の端が灰になり、何かに堪えきれぬ様子でほろりと磁器の皿へと離れた。さらにもうひとかたまりが落ちるころ、静脈が透けて見えるほどうすい、ある種の貝殻の内側を思わせる色をした君のまぶたがひらいた。
「花火をしようよ。線香花火が見たい」
 君の提案を聞いてためらった。弱々しく燃え、散り落ちるあの儚い炎は、不吉な予感の影を胸中に滴らせる。しかし僕は何食わぬ表情を繕った。
 庭で僕等は、頬を夜気がぶしつけになぶるに任せ、幻の花をいくつも咲かせた。ちりちりとかすかな音を立てて爆ぜ、はらはらと枝垂れ、枯れ、力尽きて落下する、短命な花を。
 君はつと視線を上げて僕を見据えた。口吻は穏やかだった。
「ひとつ頼みがある。この庭に埋めてくれないか。僕の亡骸を」
 僕は凍りつきわななく唇をどうにか動かすが、言葉がすぐには出なかった。僕の返答を待つひたむきで真摯な双眸の奥で、猩々緋の光の花弁がせわしく妖しく踊っていた。
「君は、君は死なない。死ぬものか」
 嗄れた声でこたえると、君のかぶりがゆるやかに振られた。
「わかっている、僕は長くない。ほかならぬ君の手で葬られたいんだ」
「それなら、僕が墓標になる。百年間、この庭で君の墓守をする」
 僕の言に、君はただ黙って微笑した。花がまた一輪、命を失って地に消えた。

 明け方まで降った雨が庭に作った水たまりが、朝の夏空を地に切り取っていた。いつものように縁側に座す僕の脇に、気配もなくひっそりと君は来た。揃って水面をのぞきこみ、僕ははっと息をのんだ。
 蒼穹を背景に、映ったのはふたつ。ひとつは僕の顔。もうひとつは青褪めて美しい――。
 しかしかたわらを顧みても、そこには見慣れた君の容貌があるばかりだった。
 どうしたの、とたずねる君に応じかねて、ただ首を左右に揺らした。
「ひどく汗をかいているね」
 僕の額に伸ばされる君の指先は、暑さに熟れて甘く崩れ腐れてゆく果実の香りがした。黒曜石の眸に吸いこまれた。くらくらと目眩に似た心地よい酩酊に襲われた。陶然とし、手足からぐずぐずと力が抜けるのを抑えられなかった。意識がおぼろに遠のいていった。
 君の声に我に返った。
「僕はそろそろ眠らなくてはね。休むことにするよ」
 そっと笑んで言い残し、床についた君の目が僕にまなざしを返すことは二度となかった。

 真夜中にひとり庭に穴を掘り、月明かりに浄められた君の遺骸を横たえた。草と土の匂いが濃密に絡み合い、鼻を打った。
 君は夜の眷属だったのか。君がものを食べているところなど、ついぞ見たことがなかった。もしあの時僕が、底知れぬ闇をとざした漆黒の眸にいざなわれるままになっていたら、君は僕を喰らえたろうに。むざむざ死なずともよかった、僕を糧にすればよかったのだ。
 弔いをすませ、ぼんやりと墓畔たる縁側に佇んだ。
 日が昇り、露草に澄明な雫が宿った。清らかな粒の内側に、逆さに歪んだ僕がいた。それはあの朝に見た、鬱々と青褪めて美しい、この世ならぬ異形の面輪。
 夜の眷属は、僕だったのだ。
 ようやく気づいた。すでに約束の時が過ぎていることに。君の姿と記憶を胸のうちに愛撫してもう百年を過ごしたことに。僕こそ、通常の食物を摂取していないことに。
 君の在りし日々、君の精を生餌として少しずつ喰らっていたのだ。
 うなだれて両手で顔をおおった。君を殺めたのは、僕だ。
 なぜ僕のそばを離れずにいたのだろう。僕に喰われながらも、君は。なぜ。

 筆舌に尽くしがたい飢えと渇きにさいなまれ、昏倒した。
 誰かを喰らわねば、養分を百年得ていない僕は滅ぶ。
 ならば僕は。ここで朽ち果てよう。君がいないのなら、永遠の生など。
 屍は雪白の灰になり、甘やかな腐臭が漂う風に舞い、君の血肉を溶かし君と一体となった庭を、庭そのものと化した君の全身を包みこむだろう。優しみと慈しみをこめて。
 夏草は野放図に茂り、はびこり、交じり合ってひとつになる僕等の存在をいつまでも秘してくれるだろう。
 僕等を分かつものは、もはや何もない。

 ――死ぬ直前、君と見つめ合ったあの一瞬に、君を僕の仲間にしてしまったんだ。
 君にそばにいてほしかったのだもの。誓いを果たしてほしかったのだもの。
 騙してご免ね。でもこれからは、僕等はずっと一緒だね――。
 そんなささやきが、最後に耳をかすめた気がした……。

20060821
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