ふるふる図書館


秘密の口づけ



『かたく小さい、きつく巻いたつぼみがわずかな風にもそよぐように、春になると心がおののきふるえる。
 罪の意識を揺り動かされて。
 幼いころ、ほんのいっときだけ近所に住んでいた女の子。
 あの子は僕から逃げていった。永遠に。僕の過ちのせいで』

 気だるい午後だった。この季節はいつだって物憂い。
 古ぼけたトランジスタラジオを見つけたから、床に敷いたラグに寝そべったままスイッチを入れアンテナを伸ばし気随にチューナーのダイヤルをまわした。そのたびラジオはさまざまな音を拾い集めては僕の前に広げてみせた。
 砂嵐に似たノイズ。海の向こうの不思議な言語。
 そんななか、ひとりの声を受信機がとらえた。僕はその語りに何の気もなく耳をかたむけた。雑音にまぎれてうまく聞き取れないのに、次第に意識がやわやわと絡められ吸い込まれていった。
 音楽をまじえながら声が紡いでいたのはひとつの物語だった。

『けぶるような光に包まれた昼下がりのことだった。
 あの子は生垣に佇んでいた。手入れが行き届いた僕の家の庭を、垣根越しにいつもおとなしく眺めていた。
 僕が見るたび女の子はひとりだった。引っ越してきたばかりで友達がいない内気そうな子。
 中に入ればきれいに咲きそろった花がたくさんあるのに。僕はあの子にも見せてあげたかった。
 こちらにおいでよ、と僕は誘った。一緒に遊ぼう。
 女の子はおどおどしながら、それでもうれしそうな表情をのぞかせて、門をくぐって来た。
 陽射しにうっとりと目を細める女の子に、どうしてそんなことをしてしまったのか今でもわからない。気づくと、僕は女の子の唇に自分のそれをそっと重ねていた。
 女の子のやわらかなはずの体はびくりとかたく強張り、次には弾かれたように離れ、身をひるがえした。怯えたまなざしを一瞬残して駆け出した。
 取り返しのつかないことをした、と僕は気づいた。後悔が僕の足をその場に釘付けにし、咽喉を閉ざし、一切の動きを封じた。
 それきりあの子は僕のもとにやって来ることはなかった。視線を合わせず口も利かず、すぐにまた引っ越していってしまった。もちろん二度と会うこともなく名前を知ることさえなく。
 この季節が巡ると僕の胸は苦くなる。消えない罪にふるえが止まらなくなる。どんなに悔やんでも悔やんでもたりない』

 僕の肢体はあいかわらずラグの上でだらしなく弛緩していたが、頭の奥だけがゆっくりとしびれるように覚醒していった。
 かつての僕は家庭の事情で転居をくりかえし、季節ごとの花を同じ場所でふたたび見たことすらなかった。だから、どこで誰と出会ったか、記憶はひどくあいまいだ。
 だけど、あの少年のことは、おぼえている。幾度も幾度も脳裏によみがえり、擦り切れ、次第におぼろげになっていき、儚い夢だった気さえする記憶。
 赤い魚が泳ぐ小さな池とつくばいを配した花ざかりの庭。
 白い肌によくなじむ、濃紺の着物を細身にいつでもまとっていた少年。艶やかな頬に髪、唇に声。
 こちらにおいでと優しく微笑され、僕は鼓動を逸らせて、はにかみながら彼のそばへ寄っていった。
 口づけは突然だった。
 驚いて、怖くて、泣きたくて、悲しくて、恐ろしくて、混乱して、得体が知れなくて、走って逃げた。
 その後もずっと少年を避けた。目を合わせることもあいさつすることもできなかった。
 じきに僕の一家はまたよそへと移ったから、その土地の名ももうわからない。
 僕は髪を長くしていて、女の子に間違われることはたびたびだった。
 ああ、僕が勝手に思い描いた儚い春の夢ではなかった。語られているこの子は僕のことだ。この人はあの少年だ。あの秘密を知っているのは、僕たちきりいないのだから。

 僕は跳ね起き、新聞に手を伸ばした。過去までさかのぼって探したが、僕が聞いた番組らしきものをラジオ欄に見つけることはできなかった。
 彼の声はすぐに雑音にまぎれ掻き消えてしまったから、名前も僕に届かなかった。
 あれから何度も、ラジオとアンテナの向きを変えて試したけれど、ついに彼の声を再び受信することはなかった。
 またこれも春の幻だったのではないか。現実と夢想の危うい境界線のたどたどしさに眩暈がして、僕は床にしゃがみこんだ。

 雑踏で呼びかけられて振り返れば、ラジオのパーソナリティを務めてくれた彼がいた。
 あなたの番組は短期間の放送に終わってしまって残念でしたねと言うと、彼は微笑んだ。
「僕のような無名の人間を起用してくれて感謝しています。役者を辞めて故郷に帰る前にいい経験ができましたよ。それにあなたのスクリプト、好きでした。特に最終回の。真に迫っていて、あなたの実体験かと勘ぐりたくなりました」
 春の日に淡く落ちる風見鶏の影、蔦の絡まる煉瓦の壁、芝を敷きつめた庭、ベンチ、茨の生垣、逃げていった女の子。胸を去来する幼い日の光景をなぞってつづった小さな小さな物語。
「ありがとう。あなたの朗読もとてもよかった。真実味があって、あなたこそ同じ体験をしたのではないかと思いましたよ。台本にない箇所もいくつかアドリブで入れたでしょう。あなたの話だと信じたリスナーがいるかも知れませんね」
 核心を逸らした切り返しにいっそう深くなったのは、秘密めかした、謎めいた彼の笑み。
「それは、役者冥利に尽きますね」
 ほっそりとした彼がこの日も身につけていた、つやめいた白い肌にまぶしいほど映える濃紺の服は、よく似合っていた。

 あの人の声がした。
 人ごみの中で不意に立ち止まったものだから、後ろを歩いていた誰かにぶつかられ、声の方角をたちまち見失った。
 壊れかけたあの古いラジオみたいに、僕は体の向きをあちこち変えて周囲に耳をすませたのに、もう、ノイズに飲まれて溶けて消えてしまった。
 ラジオの雑音にまじって途切れ途切れにしか聞こえなかったメッセージ、最後のことばが海馬をよぎった。
『何を話しても許してもらえないかもしれないけど、もう一度会いたい。そのために僕はこの仕事をしています。今、マイクの前に座ってこの言葉を届けています。僕は、夢だった俳優を諦めて故郷へ戻ります。あの子に再会できないことだけが心残りです。ささやかな可能性だけど、あの子に僕の声が届くことを願っています』
 僕は、許したかった。あの人を許したかった。あの人に巣食う罪悪感を取り除いてあげたかった。会ってまず何を口にすべきか、何を告げるべきかもわからなかったけれど。
 遠い日、僕が少年のもとを逃げ出したように、あの人はそばにいながら、僕のもとをするりと抜け出して、街の雑踏に去ってしまった。

20080322
INDEX

↑ PAGE TOP