ふるふる図書館


第5話 ロシアン・ドール russian dolls 2



「木下さんって、高校生のときからあーいう感じなんですか?」
 尋ねると、藤本さんは自分の部屋から卒業アルバムを持ってきてくれた。
「うっわ。変わってねーなあ!」
 ページをめくると十年前の木下さんが能天気に笑っていた。だらしなく着崩れた制服のブレザーが、あの人らしい。
「すごい人気だったよ。なんでもよく知っていたし、おもしろいし。頭の回転が早くて、とにかく弁が立って、理路整然としてて。気に食わない先生は徹底的に論破して負かしちゃうくらいだからね」
 あ。なんだろう。胸の奥がふんわりあったかくなって、むずがゆくて、ほわほわくすぐったい。ほめられてるのは木下さんで、俺じゃないのに。口のゆるみを収めたくて、麦茶のグラスに手をつけた。
「芸能人になれんじゃないかってみんな言ってたな。ふつうのサラリーマンになっちゃったの、今でも意外なくらい。とにかく器用で絵も上手だし、歌なんてうまいどころか自分で作れちゃうんだから。詞も曲も。楽器も弾けてライブもやってたし」
 初耳だ。そんな木下さん、全然知らなかった、これっぽっちも。
 木下さん、自分のことはなんにも話してくれないんだ、俺に。二年も一緒に働いてるのに、プライベートでもよく会ってるのに、車に乗せてももらってるのに、互いの家に遊びに行ったりもしてるのに。あの人のことちっとも、わかんねー、よ。
 なるべく音がしないよう、そっとグラスをテーブルに戻した。氷がからんと揺れた。
「そりゃさぞかしもててたんでしょうね」
 俺の問いに、藤本さんは吹き出した。
「そうでもないよ。知名度と人気とモテは別。変人だしね。女っ気は限りなくゼロ」
 そうかな。そういうもんなのかな。完全無欠の地味キャラで、生まれてこのかた地味街道まっしぐらな俺には皆目わからない。学校の人気者ってだけで、俺には雲の上の存在だ。雲に乗っちゃった八歳女児のノンちゃんにも勝ててねーよ。
「人懐っこいってより馴れ馴れしいし、オレオとかバウムクーヘンは必ず一枚一枚はがして食べるし、かにぱんは必ずちぎって遊ぶし。もてよーがもてなかろーが、本人は気にしてなさげだったけど。他人の目とか思惑なんてのは一切無縁な世界に生きてる人だから別にいんじゃない。本人はいつでも幸せそうだもんね」
「それはまあ」
 結局、木下さんの恋愛話を聞きそこなったんだった。いや、いくらもてないったって、それなりに経験はあるんだろうなやっぱり。オトナだもん。バイト先じゃ、あの人の浮いたうわさひとつ耳にしないけどさ。
「正直つかみどころがないし。いろんな面があって、どれが素でどれが本音かわからないじゃない? あとからあとから別の人形が現れるマトリョーシカみたいでさ」
 木下さんの腹のあたりが上下にぱっかり割れて、中からひとまわり小さい木下さんが出てくる、その木下さんがまた分離して……それが無限に繰り返される光景を想像して俺はくすくす笑ってしまった。
「それに、本人は自分の理屈に基づいて行動してるのかもしれないけど、端からはさっぱりわからないし」
 藤本さんの言葉に、俺はふと笑いをひっこめた。
 思わせぶりなことを発言したかと思えば、そんなの冗談に決まってるみたいな態度を取って。だから俺は、迷ったり悩んだり振り回されるんだ。いつだって。
「ねえほんとに……木下君とのことはなんでもないの?」
 身を乗り出して、ソファに座ったひざにひじをついて発せられた藤本さんの質問は、いつものちゃかしやひやかしはなりをひそめていて。
「……何回もそーゆってるじゃないですか」
 俺は即答できないというポカをやらかしちまった。きわめて遺憾だ。遺憾だ、と胸に繰り返しながら木下家をおいとました。
 日がずいぶん落ちていた。生ぬるい風が、俺の髪を揺らしていく。
「うわあ、なにそれ可愛い! 子供みたいー」
 藤本さんは、俺を一目見るなりきゃっきゃとはしゃいだんだった。あの夜、木下さんにされた髪型を俺は努めて再現しつづけようとしたその結果がこれだ。
 にしても、少しの風や動きでもさらさらとそよぐ髪はうっとうしい。今度さっぱり切ろうかな。後ろ髪を手で束ねて、うなじを外気に当てながら考えた。
 はじめてこの家に来たのは二年前だった。一回目の訪問は記憶が吹っ飛んでいるせいか、思い起こそうとするとすぐさま二回目のほうが脳裏によみがえった。
 夏の夜の出来事。生垣に咲く黄色い花。昼間の熱気の名残。窓からもれる明かり。今の光景とどうしてもオーバーラップする。
 木下さんのご両親に会って。その後木下さんのアパートに行って。木下さんとふたりで夜食を食って。それから……。

20080923
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