ふるふる図書館


第四部

第八話 夫婦に関する一考察




 湿気の高い、蒸し蒸しした放課後。
 衣替えはすぎ、半袖のワイシャツ一枚になってはいたが、さわやかな気候とはほど遠い。
 桜の赤い実がぽつりぽつりと落ちている並木道を通ってきた森川知世は、校門わきの柱にせっせと看板を設置していた。
 間近にせまった、演劇同好会の発表会の日。それを知らせる看板である。びらとともに、美術部の小園深晴にデザインしてつくってもらった。
「へえ。発表会があるの。男子校にしては珍しいね」
 通りすがりの女性のふたり連れが、知世に声をかけた。以前、正式な演劇部が毎年発表会を催していたことを知らないようだ。
「そうなんです、ぜひ来てください」
 見知らぬ人、特に若い女性を不得手とする知世は、心臓をとびはねさせながら受け答えした。もっと売り込みをかけるほうがいいのだろうが、そんな勇気が出ない。気のきいたことばひとつ口に出せない。
 ああ、おれのばかばか。この小心者。せめて、ここに滝沢季耶君でもいればよかったのに。そつなくだとか、如才なくだとかいうことばとは無縁な我が身をなげき、もどかしくもじもじした。
 そんな様子の知世を、相手はおかしそうな視線で観察している。おれは新種のペットか。
「きみも出るの?」
「いえっ、おれは、その……演出担当です」
 はたして相手は、大仰なまでにおどろいた。
「演出! へええ。本格的なんだね」
 知世はどもりながらも急いでことばをつないだ。
「いえっ、あの、主演のほうが本格的なんです」
「なんだあ、きみは出ないのか、残念」
 主演の飛鳥瑞樹君は絶世の美貌を誇り、アメリカの映画に出演して名を馳せました、とさかんにアピールすれば一も二もなく飛びつくかもしれないが、なんだかそこまでするのがあさましいような気がした。まだまだ青いのだろうか。瑞樹は、プロであったことを隠したいふしがあるから、どのみちそれは売りにはできないが。
 びらを手渡されたふたりが立ち去ったあと、ひとこともしゃべらかなかった片方になんだか見おぼえがあるなとぼんやり考えた。だが、作業を再開するうちにその思惟はあっさりさっぱり消えうせた。
 たとえ毎日テレビに映っている有名芸能人でも、髪型とメイクがかわればたちどころに誰だかわからなくなる知世である。記憶をさぐるのは、はなからあきらめた。

「あ……」
 知世は放課後、高校を出たところで、昨日の女性を見かけた。何もしゃべらなかったほうだ。同じ上着を着ていたので、かろうじて知世もおぼえていた。
 男にちやほやされるようなおもだちをしている。年のころは、二十代前半くらいだろうか。もっとも、知世は自分の母方の家系が驚異の童顔の一族だから、見かけで年齢を判断することはいちじるしく苦手だったけども。
「こんにちは。森川君」
 彼女がそう挨拶してきた。なぜこちらの名前を? と間の抜けたことを考えた。スタッフの名の書かれたびらをわたしたのだから、知っていても当然だ。
「そうか、あたしのことおぼえてないのか。そうかも知れないな」
「えっと、昨日会いましたよね」
「……ああ、ほんとうに記憶にないんだね。なんだ、先回りして損しちゃった。昨日眼を合わせなかったのは、別に他意はなかったってことか。なあんだ」
 彼女はぶつぶつつぶやいた。
「前に、どこかで、会いましたっけ?」
「あたし、野村桃子(のむらももこ)。あなたのお父さんと同じ部署ではたらいています。前に、旅行で一緒になったでしょう?」
 思い出した。
 父の会社で旅行があったのだ。家族同伴ということだったので、母と知世はしぶしぶついていったのである。二年前のことだ。
 母も知世も、旅行自体がいやだったのではなく、父と出かけるのと、他人の前で仲のよい妻、仲のよい息子を演じてみせるのが思いっきりいやだったのである。
「息子さん、こんな才能があったなんて、課長、まったく言ってなかったのに」
 課長というのは、知世の父のことだろう。もっとも父の役職などまるで知らないが。
「よく話すんですか、父と」
 知世は新鮮なおどろきにうたれた。あのひとが、よそで、ふつうの人間としてふつうに生活してふつうにコミュニケーションがとれているなど、信じがたい。
 あの融通のきかなさは誠実、機転のきかなさは正直、鈍重なところは冷静、言語力のなさは寡黙、陰気なところは渋さ、と誤解されているのに違いない。
 何しろ、若い愛人もいることだし。父とふたりで写っている写真を見たことがある。父の服のポケットから、出てきたのだ。知世とそれほど年代が変わらないことに、衝撃をおぼえたものである。
 ……愛人?
 あいじん?
 この人だあ! まさに今、このときこの瞬間目の前にいる女性じゃないか!
「あたし課長のことが好きなんだ」
 旅行のときも、そう息子に断言してはばからなかった。うかつにも、そこにこめられた深い意味などわからずに、「変わったひともいるもんだ」と聞き流していたのである。
「父とは、むつまじくやってるんですね」
 よく考えたら、この発言はいやみかもしれない。相手は気にしたふうもなかった。
「そうでもないんじゃないかな。息子さんのことはまったく聞いたことないもの」
 そりゃあ、浮気相手に家庭の話題などもちこむほどの野暮ではないだろうさすがに。
 どういうつきあいかたをしているのか、興味を持つ気にもなれなかった。男女のなまなましい話は、苦手とするところである。知人、それも肉親のことだったら、なおさらだ。
「これ、見にきてくださいますか?」
 知世は、演劇同好会の看板を指さした。相手はうなずいた。
「ありがとうございます。もしかしたら母も来るかも知れませんので、接触は避けたほうが無難だと思いますよ」
「あら。ご忠告ありがとう」
 アイラインをきれいにひいた眼をみはって、彼女は礼を述べた。知世を子供だとみなしていたのに、何もかもお見通しだったうえ、分別くさい諫言がとびだしたことにおどろいたのだろう。意表をついてみたとて、とりたてて優越感などわいてこないが。
 知世には、野村桃子を恨んだり悪く思ったりする気はない。やや軽率な言動がめだつとしても。
 彼女のせいで、森川家が崩壊したわけでもないし、彼女があらわれなくても、父と母はうまくいっていなかった。
 彼女の存在で傷つくとしたら、知世ではなくて、母だ。息子がとやかく言うことではない。夫婦の問題から見たら、しょせんは外野だ。
 しかし、どうすればいいのだろう。離婚するにも、知世が一人前になるまでは無理だと母は考えるだろう。
 それに、知世は実家を出ていていいのだろうか。両親にとっては苦痛ではないだろうか。
 父が仕事ばかりで家に寄りつかず、母は趣味や交友で家をあけることが多いから、まだなんとかなるのかもしれないが、将来もそうだとはかぎらない。
 定年退職したら、無趣味の父はずっとうちでごろごろころがってそうだし。
 それまでに、自分がどうにか一人前になっていなければならない。
 知世の胸中に、なんとしてでもこの発表会を成功させなくては、という意欲がわきあがった。唐突に。はからずもアメリカ人監督にけんかを売ってしまったときよりも激しく。
「それじゃ、おれはこれで」
 知世は野村桃子にぺこりとお辞儀をした。
「発表会、見にきてくださいね。お友達をおおぜい誘ってくれるとうれしいです」
 成功させるためには、まずはとにかくたくさんの観客を呼ぶことだ。かつての演劇部とちがって、まるっきりの無名なのだから。
 決意も新たに、知世は、飛鳥瑞樹や春日玲と合流すべく下宿先へと向かうのだった……。

20050428
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