第十話
穏やかな夜の時間が更けていく。彼と僕は自室で、おのおのの机に向かい、銘々のことをしていた。
ほおづえをついている彼の横顔をそっと見る。話しかけて読書を妨げたら機嫌をそこねるだろうか。
長い指がページを繰る。その速さで、その本はどうやら退屈らしいと知る。
「何か用?」
つっけんどんな口ぶりとはいえ彼のほうから切り出した。僕のことなんて意識にもないというそぶりだったのに。僕はヒトをやめて家具のひとつにでもなってしまったかと自分でも危ぶまれるくらい、彼の中で僕はとっくに亡き者にされているんじゃないかってくらい、その態度はいつだって徹底しているのに。
「少し、聞いてもいい?」
「勝手にどうぞ」
気乗りしないふうをあからさまにこめた返事。目は相変わらずページに落としたまま、こちらを見向きもしない。
「食べたくて食べたくてしかたないものを、ひとつ挙げるとしたら、何?」
「アイスクリーム」
適当くささが漂う返答。だけど僕はめげない。どうしても確認しておきたいから。
「たとえばね。珍しいアイスがあると仮定して。
きみは一度も食べたことがなくて、すごくほしいと思ってる。それがここに、この部屋にあるとするよ。毎日それを目にしなきゃいけない。だけど、きみが食べてはいけないアイスなんだ。なのに、いつもいつも視界に入れて生活しなくちゃいけないとしたら。
きみは、それでも眺めていたいと思う? それとも自分のそばからなくなってしまえばいいと思う?」
「前者」
即答だった。意外だ。わがままで自分勝手でずけずけ言いたい放題で、我慢や忍耐なんてできっこなさそうな彼が。
僕の内心をよそに、おもしろくなさそうに、鼻を鳴らした。
「それ心理テスト?」
「ううん、なんとなく知りたくなったんだ。ありがとう、話はそれだけ」
「ふーん」
彼は僕を一瞥し、すぐさま本に視線を戻した。ぼそりとつぶやく。
「たとえが下手くそ」
僕は無言で宿題の続きに取りかかった。彼も何もしゃべらない。
静寂が満ちる夜は、なぜか、どこか優しかった。
優しい夜が過ぎ、いつもの朝がやってくる。安らかな沈黙がまだ支配している時間帯もまた、夜と同じように優しさをたたえている。
ふたつのベッドのうち、使われているのはひとつ。使っているのは二名。
目をさましきらない彼と、隣に体を横たえて彼を見守る役目を押しつけられている僕。
なでてほしそうな子猫みたいに、彼が僕の体にすり寄ってくる。
甘い香りが胸の奥をなでてくすぐってふわふわ毛羽立たせる。
たしかに、たとえは上手くなかったことを僕は認めずにいられなかった。
アイスクリームは僕ではなくて彼のほうだ。凍えそうに冷たくて、とびきり甘い、アイスクリーム。
てのひらで包んだら、とろとろ溶けてしまうかな。
舌で触れたら、あっけなくとろけてしまうかな。
なめらかな舌触りと口どけに夢中になって、きっと口のまわりも指先もべたべたにして。
味はどんなだろう。バニラ? チョコレート? ストロベリー?
よそでは決して味わえないアイスクリーム。
味を知ることができるのは、僕?
でも僕は、食べない。
「さ、そろそろ起きよう?」
耳元で彼に言うとあどけなくこくんとうなずくけれど、まぶたをあける気配なんかこれっぽっちもない。
僕が空想にふけっていたせいで、時間がいつもより少しばかり押している。
手早くふとんをめくり、彼を仰向けにし、パジャマのボタンをはずし、前をひらいた。毎度のことで手馴れてしまい、造作もない。世話をしないといけないほど幼い弟妹もいないのに。まだ恋人だって。
恋人……。
思わず手をとめて、無防備に眠りこけている彼を見下ろす。
指をくわえているしかなくても離れたくない? そばにいてほしい? 一緒にいられればいい? 今のままの関係でいい? 諦められない? そんなのちっとも似合わないのに。それでいいの?
袖から両腕を抜いた。衣類を剥がれてあらわになった白い肌が、窓からの朝日を照り返す。指先でそっと温度をたしかめた。寝起きのせいかあたたかかった。たちまち溶けてしまうかもしれない。
唇にも触れた。形よくとがったあごと絶妙なバランスを取っている小ささだ。すでに十分ゆるんでいて、やわらかかった。今にも崩れてこぼれてしまうのを防ぎたい気持ちになるくらい。
唇が、たどたどしく動いた。
「たべない、の……?」
食べない。
僕は手をひっこめて、努めて平静な声を出す。
「寝言を言っていないで。学校に行く時間です。寝ぼすけの眠り姫」
彼はきゅっと固く目をつぶり、ぱちりとひらいた。まなざしで僕をまっすぐ強く射抜いて命じる。
「ぐずぐずしないで着替えさせろ、のろま」
すでに彼は有刺鉄線で自分を取り囲んでいた。あきれるほどの早業だ。
「はいはい」
いばらで守られた城に切りこんで、眠り姫のもとに到達した王子はたしかに勇者だ。
だけどこのお姫様は、おとなしく眠って迎えを待っていやしない。それどころか、自分がまとった鉄条網で僕を絶えず攻撃し、さんざん引っかき傷を負わせるんだから。比喩でもなんでもなく。僕にお姫様を救いに行くつもりがなくても、勇者になる志がなくても、お構いなしで。
厳重に張り巡らされたこの障壁の奥にたどり着ける王子が現れて、がちがちに冷たくてかたい彼が甘ったるくとろけてべたべたになるところを、ぜひ見てみたいものだと僕は思う。積もり積もった恨みつらみが少しは晴れるだろう。
しかし大きな問題がある。
なし得る可能性を持つのが僕だけだということだ。ほんとうに、ほんとうに残念だ。不本意だ。
すでに食べごろに溶けかけたアイスもいいけれど、それはアイスの醍醐味じゃない。きんきんに冷えたアイスのほうがたぶんおいしい。自分の体温であたためて。充分に溶かしてから舌ですくって舐めて。格別だろうな。想像しただけで目眩がするくらい。
ああだけど。
口に含むと、頭が痛くなるんだ。冷たすぎるアイスクリームって。