ふるふる図書館


第一章



 電車を乗りついで、従兄が住んでいたマンションにたどりついた。
 よく晴れた日だった。太陽が王者として君臨していた季節のことを思い出させるほどだった。しかし夏は遠くすぎ去り、その記憶はかすかだった。痛みさえうすらぎ、どこでつけたか忘れはてた古い傷痕のように。
 中庭のベンチに腰かけた。ひとけがなく、ひっそりとしずかだった。時間が降りつもる音さえ聞こえてきそうだった。
「ぼくたちは、透き通った硝子の檻にすっぽり閉じこめられているんだ」
 幼かったぼくに、従兄はそう言った。ほっそりとしなやかで、器用な手を持つ従兄を、ぼくはただ兄さんと呼んでいた。兄さんは続けた。
「上からは、時間が見えない砂となって、たえまなく降り注いでいる。この世界は、砂時計の中にあるんだ。ぼくはゆっくりと砂に埋もれていく。やがて体が風化して、砂にまじって消えていくんだよ」
 兄さんは、物知りでおだやかだった。声を荒らげるところなど、ついぞ見たことがなかった。いつもやわらかく笑っていた。
 十一階建てのマンションの屋上から飛び降りたとき、おとなたちは理由がわからないと言って泣いた。殊に伯母の嘆きようは、たいへんなものだったことをおぼえている。
 泣き顔というのは、美しくなく、滑稽でさえあるのだと、ぼくはぼんやり考えた。
 美しくないものは、兄さんには、似合わなかった。
 植えこみに落ちたせいで、遺体はきれいだったそうだ。ただ眠っているみたいに。
 ぼくには泣く理由がなかった。生きていても、いつでも会えるわけではないのだから、悲しいわけはなかった。兄さんにしばらく会えなくなったけれど、二度と会うことはなくなったとは思えなかった。
 兄さんの亡骸は、時間の砂になって、宇宙から降る粒子と一緒にきらきら光りながら落ち続けている。砂時計の底にいるぼくに向かって。
 だから命日に墓ではなく、兄さんが飛び立ったところにきたのだ。屋上が閉鎖されていなければ、そこから白い薔薇の花びらを風に散らすつもりだった。雪か、羽か、蝶のように。
 雪は死の象徴であることも、死んだ人の魂は白い鳥になって飛んでいくことも、蝶は魂の化身であることも、兄さんが教えてくれたことだった。
 白いシャツを着た兄さんがふわりと下へ舞い降りるところが見えやしまいかと、目をこらして屋上を見つめた。
 乾いた空気がしみて、視界がにじんだ。まばたきした拍子に落涙した。
「こんにちは」
 白いコートをまとった少年がひとり、離れたところに立っていた。
 黒目がちの大きな瞳をしていた。肌は、淡い陽射しに溶けていきそうなほど白かった。わずかな風にも、黒い髪がさらさらとなびいて輝いた。切り取られたモノクロームのポートレイトを思わせた。
「こんにちは」
 ぼくは挨拶を返した。
「久しぶりだね」
 澄み渡った空気をはじく、くもりもにごりもない声がつむがれた。それはぼくがとうの昔に失ってしまった資質だ。
 ぼくの声は、透明な空間を粉々に砕いて壊してしまいそうだった。そっと返事をした。ほとんどささやき声で。
「ぼくと会ったことがあるのかな」
「おぼえていないの」
 少年は小首をかしげた。年齢は十歳くらい。見おぼえがあるような気もしてきたが、かぶりを振った。十九歳の大学生であるぼくに、子供の知り合いはいなかった。
「いつか、思い出せるよ。きっとね」
 白いコートがひるがえり、ふと気づくと少年の姿は消えていた。

20050305
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