第三十章 消えゆく残響
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「おぼえてるかな、おれが昔、ケイのことをロボットみたいだって言ったこと」
「そうだったっけ」
「人に言われたことを、淡々とこなすロボットだって。教科書は全部丸暗記できるし、誰にも逆らわないし」
「そうだったっけ」
ちがう、自分は人一倍わがままで、冷たくて、平気で人を傷つける。だからおさえつけているだけだ。なれるものならなりたい。どんなに手ひどく扱われても恨むことも嘆くことも知らずにいられる存在に。
「ロボット三原則ってあっただろ。アシモフのさ。ロボットは人に危害を加えてはならない。ロボットは人間に与えられた命令に服従しなくてはならない。このふたつに反するおそれのない限り、ロボットは自分を守らなくてはならない」
「それがケイのことだって言いたいの? 残念ながら、はずれてるよ」
「そうだね」
尋はするりと、なのにずいぶん低い声で同意して、慶を至近でのぞきこんだ。
やっぱりまだ、黒に塗りつぶされて尋の顔が見えない。慶の心臓が激しく収縮した。
重みで、車体が助手席側へとすこし傾いだ。
「何そんな怯えた顔してるんだよ?」
吐息がかかるほどの距離で、尋の唇が動いた。
「してないよ。見えもしないくせに」
情けなさから、せいぜい慶は強がってみせた。虚勢とうらはらに、声音は弱々しかった。
「だからお前はロボットじゃないっていうんだ。自分の身も守ろうとしないで」
「それ以下だっていうわけか」
背中がドアに当たり、後ずさりすることもできない。
やめてくれ。もう、これ以上は。お願いだから。
尋が、どうでもいい存在だったら、いいんだ。何をされても。でも。
その逆だから。尋とはできない。してはいけない。このままの関係でいるほうが、はるかにましだ。
視線を伏せて黙りこむ慶から、尋はそっと離れて、ごくふつうの調子で言った。
「ケイをいじめるつもりはないよ。ただ、自分を大事にしろってこと。おどろかせたなら、悪かった」
口をひらきかける慶をさえぎるように、キーを回した。エンジン音が響いて慶の声を掻き消した。
尋、がっかりした? 傷ついた? 失望した? ちがうんだよ、慶は初心だとか純情だとか子どもだとか思ったかもしれない、こんな見かけだし、でもほんとうはそうじゃない。
すべて、洗いざらいぶちまけてしまえればいいのに。
そんなことはできない。実際にやってみて、どういう結果になるか、いやというほど思い知った。
こころのなかではこんなに叫んでいるのに、どうして、いつも、言えないのだろう、何ひとつ。
だから、黙々とことばを書き連ねているのか。
自分のことも、そうして小説のようにつづっていけば、気持ちが晴れるだろうか。他人事だと思えるだろうか。この身から剥離していくだろうか。いつか。いつの日か。
また、胸の奥がしめつけられた。あまりに不意打ちで、あまりに痛くて、涙が出そうになった。
尋に見られてはいけない。理由を告白できるはずもない。じっとこらえた。
いらない。いらない。涙を捨てたい。腐臭とともに涸れてしまえばいい。
「また、こっちに来ることがあったら連絡くれよな」
尋のことばに、平静を装ってうなずくのが精一杯だった。
痛い。痛い。痛覚を捨てたい。磨耗して爛れて焼ききれてしまえばいい。
どうせなら、いっそのこと、汚れきった淫乱になってしまえば、おそらく楽なのに。
尋と再会するためなら、そんなものにもなれない。なってはいけない。絶対に。
……ああ、わかった。
何もかもすべてを、自分さえも捨てても、
尋を捨てることだけは、できない。
歌がわいてくる。記憶の、過去の、からだの奥底から。気が触れそうな懐かしさと、情熱と、衝動と、愛しさと、充足感と、希望をともなった歌声。
あの子は、いつも変わらず歌っている。ほんとうは。慶のなかで歌っている。
だけど都会の喧騒にのみこまれ、途絶え、すぐに忘れてしまうだろう。
慶を圧倒するほど力強いのに、あっさりはかなく消えてしまうだろう。
実は、あの子といっしょに歌いたい、でも歌いたい歌が見つからない。歌いたいという気持ちも、いつか時間にまぎれて溶解するだろう。
だから、せめて尋には持っていてほしかった。歌っていた慶の残像を。その残響を。
いつの日か、この町に、尋のもとに、取りにくるから。きっと。