第二十八章 朽ちた歌
好奇心で、鏡で見てみた。相手には見られて、自分では肉眼で視認できないからだの箇所だ。
変形していた。うっすらでもショックを感じたのは一瞬だけだった。こんなからだなんてどうせいつかは朽ちてしまうんだから、使い捨てなのだからそんなのかまわないと、淡々と慶は考えた。
こうして、からだは持ち主からも見捨てられた。かわいそうなんて思わない、主人である慶を最初に傷つけたのはからだのほうだ。いや、端からからだのほうこそが主人だった、慶はそこに隷属しているだけだった。だからからだのことを不憫だなんて哀れんだりしない。
からだの中からわきあがる歌を歌うために、この街に来た。
でも、歌なんて、歌わない。
もう、歌いたいと思っていない。そんなもの、とっくにからだのなかにないのだから。
photo:mizutama
慶を説得するのにありったけの努力を払ってるよ今、とHはあの夜更けのファミリーレストランで言った。
「誰かひとりだけ、なんて決められないよたぶん。決まった相手ができても、たぶん、ほかの人と寝るかも」
「いいよそれでも。僕ひとりしか愛せないように努力するから」
ああ、Sに言ってもらいたかったなそういうことは、と、彼には気の毒だがちらりと慶は思った。
こんな決定的な台詞まで吐かれても、まったく慶の胸はときめかなかった。
やっぱり、だめだった。どうにもならない、これは。答えは決まっていたんだ、最初からずっと。
この人を愛することができたら、けっこう幸せだと思う。それでも。それなのに。
こういうとき、小説の主人公だったらと慶は考えてみる。
涙を流してすがりついて、ハッピーエンドになるのだろう。こんな汚れた過去、こんな汚れきった自分をすべて受け入れる人が現れてめでたしめでたし。
そううまくいくわけじゃない、自分は物語の登場人物じゃない。
まじめにそこまで考えをめぐらせ憤ったところで、いつもいつも自分の人生と小説を重ね合わせようとする我が身がおかしくなってしまった。子どものころからのくせは簡単に慶から剥がれていかない。
本を読んでは、夢想していた。魔法使いが現れたら、どうやって友だちになろう。妖精はここにも来てくれるかな。あの角を曲がったら、おとぎの国がひらけていたらどうしよう。あの烏は悪い魔女に姿を変えられたお姫さまかもしれない。
胸おどらせていた幼いときを思い出したら、少しこころが疼いた。あのころの歌が、慶をやさしく苛んだ。
からだが、歌を忘れていない。もしかしたら、ほんとうは、歌いたがっているのかもしれない。
意外に、未練がましいものだ。慶はあの時代の慶とは、もうすっかりちがうはずなのに。