ふるふる図書館


第十二章 救済する虚構



 自分はまっとうな恋愛など、たぶん一生できないと慶は思った。
 せっぱつまった衝動にも、どうしようもない必要にも駆られたことはまだないし、別れたAとも、恋人というよりは家族への愛情に近かった。彼といるとどんなことでもできそうな、空でも飛べそうな気がして、それをもしかすると恋と呼ぶのかもしれなかったけれど。
 そもそも、愛するということがよくわからなかった。慶は、家族や友達が好きだ。彼らに対する愛という気持ちと恋人に対するそれが同じものではないのだったら、この先誰も愛することはないという漠然とした予感があった。最初から誰かを愛することがなかったんだから、別に何かを失ったわけではないのだけれど。
 慶が失ったものは、予定と、仕事。
 時間がぽっかりとあいた。労働のほか、Aに費やされるはずだったものだ。彼のためにこんなにもたくさん用意していたのかと改めて気づき、不思議になった。彼に出会う前はどこに充てていたんだろうと考えて、ここ最近、まったく本を読んでいないことに思い至った。
 慶はインターネットの海をあてどなくさまよってみた。世の中には小説を書く人間が数えきれないほどいて、それをネットに公開している人間もまたたくさんいる。
 あるとき慶は、そんなウェブサイトのひとつに出会った。
 いわゆる女性向けの、男性どうしの恋愛を扱った小説。
 そういうジャンルがあることは知っていた。はじめて読んだ。  軽い気持ちで文字を追っていたのに、気づけば室内は薄暗くなっていた。電灯をつけることも忘れられた部屋を振り返ると、ディスプレイ画面の光に頼りなく照らされ、慶の影法師が水族館の魚のゆるやかさで揺らめいていた。
 最後まで読み進めたのは、信じていた職場の先輩に身も心も辱められて、好きな相手とうまくいかずに別れることになる主人公の遍歴。
 たぶん、よくある物語。ありふれた筋書き。
 慶はひとり声を立てて笑った。おかしくておかしくて、目地がにじんでぼやけた。自分の状況とそっくりだったから。無理をおして接合したあと、熱を出して昏倒するところまでが同じだったから。
 そうだよ、自分が経てきた今までのことなんて、ありがちなことだ。自分が小説の中にいるようだ。慶は本を読んでは夢見がちになる子供だったから、本の世界に入れたら、登場人物になれたらとよく夢想していた。まるでそれが現実になったみたいだ。
 その場の勢いで、小説を書いた管理人に感想をしたためたメールを書き送った。どんなに心を動かされたか、つぶさに長々とつづって。さすがに、自分は経験者ですとは、告白しなかったけれども。
 その日から、時間のたつのも忘れ、夢中になって小説を作った。ネットで読んだものと、同じジャンルのものを。
 あんな体験をしたのは、自分じゃない、小説の登場人物だ。
 ほら、小説にしてしまえば、みんな他人事になる。どんなことでも。
 自分が書いているのは、自分に起こったことじゃない。フィクションだ。作り話。虚構。うそっぱち。



photo:mizutama

 慶がメールを送った相手はプロとしても活躍している作家で、サイトも有名なものだったと後から知った。
 何度かサイトにコメントを書きこみ、それに作家が返事をつけてくれるという交流で親しくなった。
 自分の作品を公開するために慶がサイトを立ち上げたときに、作家がこころよくリンクしてくれたので、作家のサイトを訪れる人たちが慶のところにも来てくれるようになった。
「日比野ひびき」という名前で活動している慶のサイトは、徐々に成長した。
 運営に追われていくうちに、昔書いていた物語のことも、そのときの気持ちもすっかり色あせた。
 文章をつづることに向かい合うのは、以前の慶とは別人だ。
 尋と一緒に話を考え、尋に完成した作品を読んでもらい、あれこれ感想を話してもらったあのころのことがほんの束の間、鮮明に脳裏をかすめることがあった。
 放課後の校舎、尋とふたりきりの教室。耳に届く吹奏楽部の音と、野球部員の掛け声。視界の何もかもを赤々と染めている夕陽。尋の声がくすぐったくて、尋がほめてくれることが面映くて、目を上げられずに見つめ続けた机のたわいもない落書き。
 でも、それは、はるか彼方の世界のことだという気がした。あのとき尋と慶の鼓膜にかすかに響いたブラスバンドのクラリネットの音色よりも遠い。
 今の自分には、もう、書けない。書くつもりもない。清らかな夢を描いた童話など。
 昔の慶はいなくなった。どこにも。どこを探しても。

 あの子の歌声なんて、まるきり意識にものぼらなくなった。

20051015, 20080216
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