ふるふる図書館


譲葉



 毎朝六時に治子は起きる。
 好みと栄養とおいしさをふまえ、飽きが来ないよう工夫をこらした献立で、夫と息子のための弁当を作り、朝食を用意する。ふたりともそれが当然だと思っている風情で、無言で朝食を平らげ、黙って弁当箱を受け取り、静かに出勤していく。治子と視線を合わせることもなく。
 もう、幾度繰り返されたか数える気にもなれない、いつもの光景。
 休日はパジャマを着替えようともせず、ずっとテレビばかり見ている夫。口をひらけば職場や安月給の愚痴をくどくどと繰り返すばかり。すべてのものごとを否定的にとらえなければすまない人間特有の不平、不満、不服、文句、舌打ち。
 息子はめったに話もせず、何を考えているのかさっぱりわからない。とっくに家庭を持っていい年頃になったというのに、交際している女性がいるのかどうかさえ知らない。いや、新卒で入った会社を辞め、再就職のめどもつかずにアルバイトをしている息子の頭には、結婚の二文字などないだろう。趣味には惜しみなく注ぎこむくせに、家にはほんの申し訳程度しかお金を入れない。治子は、息子の将来を案じ憂え、夜な夜な胃を痛めて寝つけないのに、当の本人はどのように考えているのかちっともうかがえない。
 死ぬまでこんな時間が続いていくのだろうか。好きにふるまう夫と息子に感謝されるどころか空気のように扱われてもなお自分を殺してひたすら我慢する生活、砂をかむように乾燥しきって味気ない同じ日々を繰り返す人生が。
 わたし、精一杯努力したつもりだった。治子は今朝も、ひとり取り残されたダイニングテーブルに頬杖をついて回想する。「ああ」とか「うん」しか言わない夫と息子を相手に話しかけてはうるさがられるという、むなしい努力を何年も。
 何がいけなかったんだろう。いったいいつからこうなってしまったんだろう。それなりに優しかった結婚当初の夫と、何かにつけまとわりついてきた幼いころの息子。満ち足りた日々は遠すぎて、かつて存在していたことすら信じられなくなる。
 わたしが夢を抱いて何十年もの歳月をかけ、愛情をこめて築き上げた家庭の、これがなれの果てなんだわ。この現実が。

 治子は、近所のスーパーでパートをしている。
 ろくに働いた経験もないまま結婚し、家庭に入った治子にとって、他の人が難なくやってのけるレジ打ちですらなかなか慣れることができない。
 でも、ここで頑張らなくてはいけないわ、と治子は思う。求人広告に何件も何件もあたっては、年齢制限を見て諦めるのが常なのだ。このスーパーだって、治子は規定を過ぎていたのに、人手不足と店長のお情けで採用してもらったのだ。
 だからミスなどしてはいけないという心構えも虚しく、治子の指は勝手にキーを打ち間違え、客にも店にも迷惑をかけ、治子をいたたまれない針のむしろに追いやる。
「大丈夫ですか、治子さん。何か手伝いましょうか」
 よく声をかけてくるのは、大学生のアルバイトの佐藤拓也君だ。下の名前で呼ぶのは、特に親しいからではない。この店には佐藤姓が何人もいるので、みんながそうしている。
 拓也君のレジを打つ手さばきは、治子の目を奪うほど鮮やかで速い。若々しくほっそりと長い指がキーの上を踊っているように見える。
 治子は自分の手に視線を落とし、恥ずかしさから思わず袖の中に隠してしまう。荒れて手入れの行き届かない、しわが寄ってがさがさとした肌。今日はせめてハンドクリームをつけてから眠ろうと治子はひそかに心に決める。

 夕暮れ、弁当屋で惣菜を選んでいる拓也君を見かけ、治子は声をかけた。振り返った拓也君は、いたずらを咎められた少年のような表情になった。
「拓也君は一人暮らしだったよね。自炊なんでしょう?」
「それが、あまり料理は得意じゃなくて」
「ちゃんと栄養のバランスを考えないとね。若いうちはいいけど、年を取ってから体のあちこちにしわ寄せがくるんだから」
 夫や息子に鼻であしらわれるような言葉にも、拓也君は素直にうなずいて耳を傾ける。その表情に誘われるように、自分でも思いがけない台詞が治子の口を自然について出た。
「これから、おいしいものでも食べに行かない?」
「これからですか?」
「いつも手伝ってもらってるから、お礼がしたくて。それに夫も息子も帰りが遅くていつも待ちくたびれるの。付き合ってくれるとうれしいわ」

 ふたりは定食屋に向かった。店から突然客が出てきて、治子にぶつかりそうになった。拓也君が、とっさに治子の二の腕をとらえて引き寄せた。
「大丈夫ですか?」
 腕をつかまれたまま顔をのぞきこまれた治子は、突然頬が火照った。いやだ、恋人どうしみたい……。
 テーブルに差し向かいで座って、「治子さん」「拓也君」なんて呼び合って。
 なのに、わたしときたら、毛玉のできたセーターに、もう何年履いたかわからないほど古ぼけたスカートに、ひざとかかとがすりきれかけた分厚いタイツに、ぼろぼろの靴だなんて。拓也君は、シンプルで清潔感のあるシャツと、しなやかな脚に似合うジーンズを颯爽と着こなしているのに。
 そういえば、美容院に最後に行ったの、いつだっただろう。
 ああ、わたしの腕、太くてたるんでぶよぶよしてて、拓也君はあきれたんじゃないかしら。内心笑ってるんじゃないかしら。
 恥ずかしくてたまらず、料理の味などまるでわからなかった。
「ごちそうさまでした。楽しかったです。また一緒に来ましょう」
 拓也君がにっこりした。社交辞令に決まっているのに、治子の心臓は早鐘を打った。
「次は俺がごちそうしますから」
 重ねて誘われると、治子は調子を合わせてうなずくしかなかった。

「見たわよ治子さん。昨夜拓也君とデートしてたでしょ」
 職場に着くやいなや、パート仲間にからかわれ、治子は真っ赤になった。
「デートだなんて。相手は子どもよ」
「そんなのわからないわよ。芸能人だって、年増でも若い男の子を侍らせたり結婚したりしてるじゃないの」
 わたしは女優じゃないわ。もし、きれいでお金持ちだったら、拓也君と食事に行くことだって堂々とできて、ちっとも怖くないだろうに。
 下世話な揶揄は、しばらく続いた。噂が大好きなのだ、この人たちは。話すことといったら、尾ひれをつけた流言蜚語、夫や姑の悪口陰口、仕事の愚痴、著名人のゴシップ。
 拓也君は、こういう環境にいてはいけないわ。純粋で、まっすぐな心を持っているんだもの。こういうところに染まってはいけないわ。

 真向かいに腰かけた拓也君は、きれいな歯並びを見せて屈託なく微笑んでいた。
「うれしいです、治子さんがまた付き合ってくれて」
 一緒にいるだけで誰かが楽しんでくれる、そんな喜びを治子はすっかり忘れていた。治子の胸はにわかに震え、軽やかな羽毛のように舞い立った。
 治子は思い切って一揃い買った服をまとっていた。靴も新調した。手に取ることを忘れていた化粧品も。
 さんざん歩いて探し回って、いつもなら決して敷居をまたがない店にも勇気を出して足を踏み入れ、あれこれ薦めてくる店員にどぎまぎしながら、やっとのことで選んだ服と靴と化粧品。だって、そばにいて、拓也君に恥ずかしい思いをさせてはいけないもの。
 気後れして尻込みしたくなるほどおしゃれな美容室で、髪もととのえてもらった。
「今日の治子さん、いつもと雰囲気違いますね。きれいな奥様って感じがします」
 拓也君の声を聞いたとたん、自分でもどうかと思うほど心が昂ぶっておさえられなかった。ああだめだわ、もし何か言われたらにっこりして「そう、ありがとう」と大人のゆとりを見せて軽く受け流そうって決めていたのに。かぶりを振って顔を伏せることしかできなかった。
「俺が言うのは失礼ですけど……治子さんってほんとに可愛いですね。そこらにいる女の子よりもずっと」
 治子の狼狽は頂点に達した。いい年して、何をうろたえてるのよわたし。相手は息子よりも年下なのに。鼓動が高鳴る。どうしてこんなにときめいてしまうの? 誰に対しても、こんな気持ちをおぼえたことなかったのに。どうしてそんな、優しさと愛おしさと慈しみとひたむきさと照れくささをこめた目を向けてくるの?
「また、こんなふうに、俺とどこかに出かけてほしいです。だめですか」
 たずねられて、治子が断れるはずがなかった。

 街で偶然拓也君を見かけた。同級生らしい女の子と一緒だった。ふわふわとした愛らしいスカートからのびた、小鹿のように華奢な脚がまぶしかった。
 それはそうよね、拓也君にだって若い子どうしの付き合いはあるんだから。自分に言い聞かせた治子は、その晩、風呂上がりに全身を姿見にさらしてみた。次の瞬間、つきつけられた事実に打ちのめされてその場にうずくまってしまった。
 必死で家事をこなし育児に明け暮れていた治子は、自分の体を仔細に眺めるような興味をとうに失っていた。至るところに脂肪がつき、たるみ、しわが寄り、張りを失い、見苦しい凹凸が無数に浮かび上がり、弛緩しきった肉体に、やっと気づいたのだ。
 悲鳴を上げたかった。どうして、いつの間に、こんなわたしになってしまったのと頭を抱えて泣き叫びたかった。違う、ほんとのわたしはこんなじゃないと喚きたかった。
 しかし声ひとつ立てられず、治子は放心しきって長いこと座りこけていた。

「正直に言うと、治子さんの人生を背負うことは俺にはできない。最終的には違う人を選ぶと思う。俺に何かを期待しないでください。嘘はつきたくないんです。治子さんには誠実でいたいから」
 そんなこと、わざわざ口にしなくていいのに。とっくに承知の上でわたしはこうして拓也君といるのに。どうしてそんな残酷なことが言えるの。若さがそうさせるの?
 治子はなんとか笑顔を保った。
「わかった。だったら終わりにしましょう」
「終わり? どうしてですか? ずっと今のままでいてはいけないですか?」
 拓也君は心底からおどろいた表情をした。治子との間柄を断ち切るつもりは毛頭ないのだ。必要とされているうれしさと、はなから恋情の対象外である情けなさが治子を襲った。
 うんと年上だから、わたしのこと、寂しさも嫉妬も感じない、ものわかりのいい大人だと思っているんでしょう。結婚して子どももいて、すでに女の役割を終えているから浮いた話に無関係だろうと思っているのでしょう。これがあなたにとって都合のいい、虫のいい話だということに、決して気づくこともないのでしょう。
 わたしのすることは重荷なのね。おいしい料理ができたら食べさせてあげたい、晴れた日は一緒に散歩したい、さわやかな風が吹く日は一緒に花の香りをかぎたい、心に染みる音楽を耳にした日は一緒にせつなさをかみしめたい。わたしの生活には一瞬ごとに拓也君がいるのに、拓也君の中にわたしはほんのちょっぴりしかいない。わたしが何かしてあげればあげるほど、拓也君を縛りつけるだけなのね。
 一度も使ったことのなかった携帯電話を買った。一度も触ったことのなかったパソコンを買った。一生懸命に操作をおぼえた。メールもできるようになった。夢中だった。服や口紅はおろかヘアピンの一本さえも、ここ二十年ほどは微笑みもまなざしもくれたためしのない夫のことも、治子に世話をしてもらって当たり前と思っている息子のことも、難癖をつける客に悩まされる仕事のことも、人の足をひっぱることばかり考えているパート仲間のことも、忘れきることができた。難しくてうまくいかないときも多かったけど、突然ひらけた新しい世界に奮い立った。
 それもみんな拓也君に追いつきたくて、少しでも共通の話題がほしくて、時間を共有したくて。でもわたしが拓也君の言葉ひとつひとつを真に受けて、勝手に浮かれて始めただけのことだったのね。
 拓也君の姿を見るだけで満たされて幸せだった。拓也君のことを考えるだけで、生き生きとして、生活にも心にも活力が生まれ、充実していた。
 裏腹に、いつだって飽きられるのを怖れていた。不安だった。捨てられたら自分が本当に価値のない人間だと証明される。もうおばさんだから、若くないから、衰えているから、夢も未来もないのだと。何でもできて、学歴があって、体力も、残された時間もたくさんあって、どんなことでも知っている拓也君に接すると、知識も教養も学歴も体力も記憶力もないことを痛感し、若い感性についていけない我が身を呪い、自信と誇りを失い、落ちこみ打ちひしがれ、今までの自分の人生は何だったのかとひとり塞ぎこんだ。
 でもそんなことを誰にも打ち明けることなどできない。誰よりも拓也君に。告白して何になるの。自分の若さに疑いのかけらも持たない人に、そんなことを訴えてどうなるの。鬱陶しがられるだけ。わかってもらえなくてむなしくなるだけ。理解も共感もできっこないってわかりきってることじゃないの。困らせるだけだもの、甘えるなんて絶対にできやしないわ、そう、泣くことだって、これっぽっちも……。
 拓也君と別れて、誰もいない家に帰ると、彼と親密になってからずっと張りつめていたものが一気に崩れて、治子は嗚咽した。
「わたしはもう、おばさんなの! 家族から感謝もされない。社会からも必要とされない。求人募集にひっかかることもない。何の取柄も価値もない。老化して新しいこともおぼえられない。才能も生活力も経済力も若さも将来もない、誰かに頼らないと生きてもいけない、老けて醜いおばさん、いいえ、おばあちゃんなのよ!」
 ありったけの言葉を自分に投げつけ、ただしゃくり上げ、ひたすら涙をこぼした。

 あたしは目の前の椅子にかけている、すらりとした女性をまじまじと見つめた。
 料理研究家としてとみに脚光を浴びている治子さんは、年齢を感じさせず生き生きと輝いている、どこか奔放で華やか、しなやかで美しい人だ。垢抜けていて、もちろん男にたいそうもてる。主婦の身分をきっぱり捨てて成功したことも、女性のあこがれと注目を集める一因だった。
 その秘訣を探るべくインタビューに出向いたライターのあたしは、「生活に疲れきった平凡で貧しい主婦」だった本人が語る過去を耳にしても、とうてい信じられなかった。
「彼にとってわたしは、これから始まる長い人生の通過点でしかないの。最初から。わたしだってわかっていた。責任を取ってくれなんて思うはずない、ただ、心や時間を分かち合ってくれる誰かがほしかっただけなのよ。
 あなたとのことはいくつかの娯楽のうちのひとつよ、という大人のやりかたで、余裕たっぷりに軽く付き合ってあげられればよかった。彼もそれを望んでいたんでしょうにね。彼が差し出す好意にすがりついてしまったの、わたしのことを好きになってくれるのはもうこの人以外決して現れないだろうって。
 彼には心の底から感謝してる。彼がきっかけをくれたおかげで、幾つになっても人生は切り開いていける、すべてうまくいく、初めてそう信じることができるようになれたの」
 治子さんは優雅にティーカップを口に運び、ふと窓の外、喫茶店の庭に植わった木に視線をとめて「ゆずり葉ね」とつぶやいた。
「新しい葉が出来ると入れ代ってふるい葉が落ちてしまうのです……そんな詩がありましたね。河井酔茗の」
「何も持っていかず、すべて若い世代に譲っていくために生きていく。それは確かにすばらしいことなのでしょう。でもね。年を重ねたら、誰からも感謝されず、顧みられることもない人間にならないといけないのかしら。すべての可能性を否定され奪われないといけないのかしらね」
 そう話した治子さんは、不意に、初々しい少女のようにくすりと笑った。きっと、例の男の子に対してもこんな可憐なしぐさをしていたのだろうとあたしは想像した。
「そうそう、ゆずり葉の花言葉をご存じ? 『若返り』なんですって」
 ちょっと皮肉ね、と微笑する治子さんの目元には、初々しい少女ではありえない色香と陰がさしていた。

20070303
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