番外編1 ジョーカー・イン・スパ joker in spa
「夏ならカレーだっ!」
いつもといえばいつものように、木下さんがつまらないことに熱弁をふるった。俺は七月生まれのせいか、今の気候は苦にならない。しかし暑苦しいのとむさ苦しいのはちがう。
「はあそうですね」
まともに取り合うのも面倒でおざなりに応じたら、そうだろそうだろ、と色素の淡い瞳にいっぱいキラキラ星を瞬かせつつ会心の笑みを浮かべる木下さん。そこまではいい。
「それでなんで、一泊温泉旅行になるんですか」
差し出されたのは「遠足のしおり」。ステイプラーで簡易製本されたそれをぱらりとめくれば、タイムスケジュールやら持ち物リストやらが、木下画伯オリジナルとおぼしきゆるキャラのイラストつきで掲載されていた。センスの高さがすみずみまでむだに行き渡っている。暇人なのかこの人。表紙には名前を書く欄まで設けられていた。実際記入してみろ、誰かに見られたときたいそう恥ずかしいじゃないか。
「夏こそとことん汗をかこうじゃないか、くんずほぐれつわっはっは」
「や、そうじゃなくて」
「昔、近所の商店街の福引で当たったんだよ、旅行券。そろそろ期限切れになるからその前に行っておこうかと思ってさあ」
「俺と?」
「お前と」
大五郎?
「なんで」
「上司命令?」
命令、かあ。じゃあしょうがない、行ってやるとしますか……。なんて部下のくせにこっそり上から目線の俺だった。
したたるほどの緑が涼しい東北の、こぢんまりとしたお宿。お風呂はもちろん温泉だ。
脱衣を終えてタオルを持って、いよいよ湯けむりの中へ……と入り口に足を向けたところで木下さんに腕をつかまれた。
「ひとりで行くな危ないだろ? せっけんでも踏んづけて、つるんと滑ってすってんころりんしたらどうするんだ」
「思う存分笑ってあげます。そんなドリフのコントみたいなシチュエーション、オイシすぎますよ」
俺ちょっぴりいじわるかも。ふだんいじめられてるリベンジだ。ブラック公葵ここに降臨。
「全然見えてないんですか?」
木下さんは今日、待ち合わせ場所にめがねをかけて現れたのだった。なんでも、今朝に限ってコンタクトレンズがうまく入らなかったのだとかでぎりぎり歯ぎしりせんばかりに悔しがっていた。いったいなにがそんなに遺憾なのだか。
「目がこう、3って感じ」
藤子・F・不二雄のキャラかよ。
「まさに『めがねめがね』状態だよ。知ってるか、横山やすしのネタ」
「もちろん知ってますよやっさんでしょ。西川きよし師匠にどつかれる人でしょ。俺も木下さんどつきましょうか?」
「てことはお前俺の相方かあ。うひょーそりゃあどつかれたいわーどついて叩いてつっこんでー」
「うわキモイです。そんなことより、ほんとにコンタクトはめてないんですか?」
「疑うねえ。ほらっ目ん玉かっぽじってよっく見るがよい。ってかっぽじるのはこっちだけどなっ」
両手の親指と人差し指でまぶたをむにーっと押し広げて俺に迫ってくるから、しげしげとその目をのぞきこんだ。なるほどレンズらしきものは認められない。うーん、この薄い色はカラーコンタクトじゃないんだな、自然なのか。
「って、近っ!」
成人男子がふたりマッパでなにやってんだっ。
「ああええ裸眼なのはしかとわかりましたから。介助犬の代わりもしますよ」
木下さんは、俺の背中をためつすがめつまじまじと観察した。
「なにしてんですか」
「目印探しておかないと、迷子になるから」
「そんなにたくさん人いませんし! ぎゃっこそばゆいです! 触んないでくださいよう」
「いやこのほくろ、洗ったら落ちたりしないよなって調べてるの」
「そんなところにつけぼくろなんかしません! マジックで落書きもしませんって」
温泉ひとつ入るだけで大騒ぎだ。
「こっち露天風呂だ! 俺、先に入ってるから」
ガラス戸をがらりと開けて木下さんが興奮する。時間帯が遅いためかほかに客もおらず木下さんの独壇場だ。誰にも迷惑がかからないことは救いだけれど。めがねなしでは歩行もままならないんじゃなかったのか。木下さんに並んで湯につかりながらそう言ってみたら実に誇らしげな顔をした。
「俺の心の目は視力2.0以上あるのだ」
「はあ、さよですか」
「だからいろんなことがわかるのだ。例えば」
夜陰の中、木下さんは俺に顔をずずいと近づけた。近眼って目標物をピンポイントで捉えることができないのかな。焦点がぼんやりしているみたいだ。虹彩が大きくて、通常より眼光がゆるくて柔らかい気がする。
「お前が可愛いってこととか」
「は? あの、心の目にもコンタクトつけたほうがいいですよ……」
俺は妙にそわそわと、頭の上に載せたタオルのずれてもいない位置を直した。木下さんが笑って体を起こし、両腕を挙げてうんと伸びをして叫んだ。
「うわー星がいっぱいだあ」
「ほんとですね。きれいだなあ」
ふたりで黙って空を眺めた。虫の音がする。かすかに遠くで電車の走る音が響く。怖いほど静かだ。常日ごろうざいほどおしゃべりな木下さんのめったにない無言も、体を包みこむ温かい湯の感触とひんやりとした空気も、なにも考えずにぼうっとすごす時間も、すべてが安らいで心地よすぎて、身も心もこのまま闇の中にほぐれて溶けてしまいそうだった。
そっと木下さんの横顔を盗み見た。ほっぺたをピンクに染めて、とろんとした面持ちをしている。そんな木下さんの表情ははじめてで、なぜかドキリと心臓が弾んだ。でもここで俺が声を発すれば、たぶんまたおなじみの、のらくらへらへらした態度に戻るんだろうな。俺は静かに沈黙を守った。
どのくらいそうしていたのか。
湯の流れが変わり、傍らに視線をやれば木下さんがくったりと湯船のふちにうつ伏せていた。のぼせたみたいだ。小学生か。
「つらかったんなら早く言ってくださいよもう。一緒に出たのに」
木下さんは真っ赤な顔で口をとがらせた。
「だってえ、もったいなかったんだもん」
「明日チェックアウトの前にまた入ればいいですよ」
そう応えたものの。もったいないって言ったのはお金のことじゃなくて、ふたりで浸ったこの秘密めいた時間が終わってしまうことだったとしたら、俺たちは同じことを感じていたのかも知れない……なんて内心考えていたのだった。
木下さんの復活劇はすこぶる華麗で素早かった。部屋に帰る途中の広間で卓球台を発見するや、めがねをきらんと光らせたのだ。
「温泉とくれば卓球だろピンポン! ピンポン! ほらユニフォームも着てるしな!」
木下さんの強いすすめで、俺たちは旅館の浴衣姿だった。浴衣は着方がわからないからと家から持参したTシャツやジャージを使おうとした俺を説き伏せたのだ。
卓球上手いんですか? と聞きかけてやめた。なんでシェイクハンドのラケットで、ペンホルダーの持ち方をしてるんだよ。今は世界的にもシェイクが主流なのに。素人か?
なんて計算も手伝って、軽いノリで始めたんだ。ラリーを楽しく続けようくらいの気持ちで。が。
「ちょ、本気ですか?!」
めちゃくちゃな構えのくせにびしばし打ちこんでくる。テクニックなのか単に下手なのか、拾いづらいところにばかりピン球を飛ばしてくる。くそ。
台を離れ床すれすれを低くバウンドするボールをぽんとラケットで叩いた。高く跳ね上がるボールを腰を屈めることなくキャッチしつつ俺は打倒木下さんを誓った。ラケットのラバーを頭に当てて動かしてみる。よし、粘着性はそこそこあるな、スピンは十分かけられそうだ。スリッパを脱いで足を肩幅にしっかり開いてフォームをととのえた。
「回転かけていいですか? マジでいきますよ」
サーブのときに掛け声出そうかくらいに気合を入れまくる俺と対照的に、
「うんどうぞ。お前経験者だろ。勝つつもりねーし」
木下さんはすましてしれっと言う。はあ? そんならラリーでよかったんじゃん。今までのなんちゃってスマッシュはどういうこったよ。
「でもさーお前の浴衣がはだけるのがおもしろくてーついつい翻弄させちった。てへっ」
自分の頭をグーでこつんと叩いてぺろりと舌を出してみせる。うっわー可愛くねええー。
「チラリズムはいいねえ。日本人が生み出した文化の極みだよ」
うわごと言ってますこの人。げっそりしつつも、一抹どころか百抹も億抹も不安に駆られる。俺、あんまり寝相がよくないんだよな。最悪、浴衣がぜんぶめくれてしまったら……顔を隠して体隠さずのけっこう仮面かよ! ちっともけっこうじゃねえー!
部屋に戻ったらやっぱりジャージに着替えようと俺は意を決したのであった。
しかし、結局なんのかんのと押し切られ、ジャージは没収されてしまった。疲れた。「温泉効果だーお肌つるつるぴっかぴかー」なんてぺとぺと触られじゃれられて、一向にふとんに入る気配を示さないでいた木下さんをどうにか寝かしつけたころにはとっくに日付が替わっていた。木下さんの顔からめがねをはずして枕元に置き、電灯を消して、俺も隣の寝床にもぐりこんだ。
疲れた、けど。
「連れてきてくれて、ありがとうございました。楽しかった、です」
真っ暗な部屋にぽつんと俺の声が吸いこまれた。返事はない。ちぇえっ。さっさと眠っちゃったのかよ。せっかくちゃんと真面目にお礼が言えたのに。忸怩たる思いで、木下さんに背中を向けてころりと寝返りを打った。すると。
「また、ふたりで来ような……」
小さなささやきが鼓膜に届いた。ぱっと振り向いてみたけれど、ご本人はすやすやとお休みになられている。寝言か? 夢の中でも俺と遊んではしゃいで会話してんのかな、と想像したら肺のあたりが無性にくすぐったくて、俺は上掛けを鼻まで引っぱり上げた。
ぐっすり熟睡できそうだ。
明日が来るのはちょっと惜しいけれど。
今夜は、おやすみなさい。
***
ふたりでドキドキ温泉旅行をお届けしました。
分量の都合上、旅程や宿や料理の描写はすっとばしました、すみません。
キャリー★さん、リクエストありがとうございました! トキメキ度が低かったらごめんなさい。
本当に愛されてますね、このふたり……。しみじみありがたいです。