第23話 ウェイト・アンティル・ダーク wait until dark 3
休憩時間になった。スタッフルームに入り、ホワイトボードに近寄ったが、そこに貼ってあるはずの紙がない。
「あれ? シフト表、どこに行ったんですか」
「木下が持ってった。確認したいところがあるとか言ってたかな。もし急ぐなら、事務室にいると思うよ」
その場にいた谷村さんが教えてくれた。
お礼を言って、俺は事務室に向かった。別にあわてる必要ないんだけど。善は急げっていうし。なにかで気をそらしてないと落ち着かないし。
俺たちバイトは用事がない限り入ることのない事務室をノックした。失礼します、とドアを開けると、はたしてそこには木下さんがひとり、席に座っていた。机は奥にあるので、入り口に背を向けて座る格好になっている。
「あの、シフト表が見たいんですけど。今いいですか」
振り向いた木下さんがにっこり笑った。
「そんなにリョーヘー君とのデートの日にちを早く決めたい?」
「えっ! 地獄耳……じゃなかった、デート言わないでください、友達ですよ涼平は」
「お前はそう思っていてもねえ」
意味不明なことを言って、手にしたシフト表に目を落とす。
「あらら残念、桜田君のシフト、ずっと遅番。休みもないねえ」
「な、わけ、ないでしょ! ブラック企業ですかここは」
俺にしては俊敏に間合いをつめて、表を覗きこんだ。驚いたのか表を隠そうとしたのか、木下さんが椅子のキャスターを転がして離れようとする。だが、席は狭い事務室のすみっこにあるので、数センチしか移動できなかった。
ほら、こうして一気に懐に飛びこんでしまえば、手足が震えることもないんだ。
俺の目の前に木下さんの顔がある。近い。耳の下のそり残した短いひげが一本、猫のそれみたいにぴょんと飛び出しているのすら見えた。ひげがうすくてもともと本数が少ないだけに、そこだけ生えてるのがものすごく気になる。今すぐぷちっとひっこぬきたくなる衝動をおさえ、俺は、背もたれに片手を、机にもう片方の手を置いて、木下さんの退路を絶った。
「なんで逃げるんですか?」
「俺が?」
「近寄ってもこない、触ってもこないって、どーゆーことです?」
「ここは神聖な職場ですよ桜田君? そんな破廉恥な真似などしませんよ」
なにそれ! 新手のギャグかよ? 呆れすぎて我を忘れる。
「はあ? いったいどの口が言うんですかこの口ですか?」
俺はそらっとぼけた戯言を繰り出す木下さんの口を、有無を言わさずふさいだ。
相手の体がぴくんとこわばったのが、唇ごしに伝わる。それでも抵抗はなく、三秒ほどそのままでいた。
「おま……なに……真っ昼間っからこんなところで。どこの少女漫画だよ……」
解放すると、木下さんは目を伏せてしまった。心なしか、耳が紅潮している。一本とったり、のはずなのに、滅多に見せないしおらしい木下さんの表情に勝利感を噛み締めるよりも、速まる鼓動を意識せざるをえなくなる。これはこの人の策略なのか?
「両手がね、空いてなかったんです。偶然。だから、口をふさぐのにこの方法しかなくて。駄目でしたか? 肉体の感覚に惑わされるな、って言ってましたよね。でも俺はなにも惑わされてませんよ?」
木下さんは、俺から逃れるみたいに体を縮めるように壁にくっついて、「ううう」とうなっている。なんなの。シフト表は手に握りこまれてくちゃくちゃだ。惑わされてるのは自分じゃないのか?
「不思議な人ですね、木下さんは」
俺がつぶやくと言い返された。
「その言葉、そっくりお前に返す」
顔の下半分をグーにした手で覆っているので、あまり迫力はない。俺は「変な人」という意味で「不思議な人」と婉曲に表現したのに、同類にされるのはちょっと不本意だ。
「どこがですか。俺はたいそう素直に行動してますよ。あまのじゃくなアンタとちがいます」
腰を落として、なんとか木下さんと視線を合わせようとした。
「だってそうでしょ。俺に触ってこなくなったのはパワハラでセクハラにならないように、まではわかりました。で、里美さんと一線を越えたと聞いたらどうして俺にべたべたしてきたんですか。かと思えば、今日は俺を避けてるし。俺のことがいやになりましたか?」
木下さんが俺と視線を合わせないままぷるぷると首を振る。弱々しい木下さんを存分に鑑賞したくて、俺はさらに意地悪を言ってみた。
「ですよね? 今朝、幸せそうに俺にくっついて甘えてきてましたもんね? あれが木下さんの本心ですよね?」
「じゃあ、俺が職場でもところかまわずお前といちゃいちゃしていいのか?」
「げ。それは、いやです……」
反射的に否定してから、木下さんが俺をまっすぐ見て、いたずらっぽい笑みを浮かべているのに気づいた。ちぇ、もう立場が元に戻ったのか。
だけど、この関係がいちばんしっくり来るのも、それが落ち着くのも、心の片隅では納得してしまっているのだった。どうせ、いじられ末っ子キャラですよーだ。