第3話 ギブ・ミー・アップ give me up 3
「くふふ」
上機嫌で笑う声がする。もしかして酔ってんだろうかとずいぶん遅まきながらその可能性に気づいた。へらへらおしゃべりなのは素面のときもだから、さっぱり区別がつかぬ。
「まずはだな。男の恥はかかないことだな」
「というと?」
「据え膳食わぬはなんとやらってことわざ知らねーか?」
「知ってはいますけど。いつどこにそんなオイシイものがあったんです」
「さっき。このベッドの上にころがってたじゃんか」
へ? 俺はつい、がばりと顔を上げてしまった。それこそ木下さんの思う壺だったんだろうけどかまうもんか。
「なのに、なーんにもしてこねーの。つまんなーい」
「ネタふり、じゃないや、寝たふりだったんですかあれは?!」
ひでえ。ほっぺたが赤くなったのがわかった。いや、実はも少し前から熱かった。だから枕で隠してたんだ。これなら、からかわれた怒りのためだって思ってもらえっかな。
だってさ。
ずっといたかったなんて割と真顔で言うんだもん、勘ちがいしちゃうじゃないか。もし冷たいと思われたんならなんとかして変えなくちゃなんて考えたピュアな俺がまちがってた。未経験で未熟な若人を翻弄しやがって。この人ほんとに口八丁手八丁。口だろうが手だろうが信用しねえ。しねえったら。
「木下さんって、俺にずっとちょっかいかけてきてませんよね?」
「あ。さびしかった?」
「どーしてそーゆー結論になるかなあ! 高校を卒業したあたりから、俺にかまってこなくなったから、木下さんもとうとうそーゆー悪ふざけから足を洗ったと思ってたんですよ? なんで今ごろ蒸し返すんですか」
あれが狸寝入りだったとするなら、油断しきってた俺を背後から襲撃するような卑怯きわまりないことくらい、かつての木下さんなら平気でやったはずだ。
「若い子をいたぶるのが楽しいんでしょ? 俺はもういいじゃないですか」
この支配からの卒業だよ。盗んだバイクで走りだしたり夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりはしないけど、信じないもん大人なんて、というか木下さんなんて。
「お前も若いぞ」
「もう二十代です」
「いくつになってもお前は可愛いけどなあ」
「そんなこと言うんだったら、俺は無精ひげをボーボーにはやした、脂ぎって二重あごでメタボ腹のむさいオッサンになってやりますっ」
真剣に抗議してんのに、木下さんはけたけた笑った。
「それでも可愛い」
「じゃあ、俺がオッサンになってもセクハラできますか? できないでしょ? 今だってもうしてないのに。だから、思い出したよーに俺をからかうのはやめてくださいよね」
「うん。……からかわない」
いやに神妙な返答がどことなくひっかかるけれど、言質を取ったということで深追いは避けた。
すすめられて、シャワーを浴びた。冷房でだいぶひいてはいたけどそれでも、昼間かいた汗を流すとさっぱりとして心地いい。
しつらえの豪華な浴室で、石鹸とシャンプーのいい香りに包まれてお湯に打たれていると、ようやく完全にひとりになったこともあってかとりとめなく考えがよぎって、ぼんやりと立ち尽くしていた。
俺って大人げないな。木下さんにちょっとくらいからかわれても、笑って流せばいいのに。どうしてあんなにむきになって怒ったりするんだろう。
それにしても。木下さんはなんだって、俺へのスキンシップを控えるようになったんだろう。俺、どこか変わったかな。
鏡にシャワーノズルを向けてお湯をかけた。くもりを消し、しげしげとのぞきこんだ。ピンク色に上気したほっぺたはまだぷにぷにしてるし、顔にしわなんかない。髪だってふさふさだし、食いしん坊じゃないから腹はへこんでる。ひげも濃くない。高校生に見られることだってある。
俺たちはどこも変わってないって言い聞かせてた、でもそんなのうそだ。
変化したのは俺じゃない、木下さんのほうだ。加齢で、そーゆー欲求が衰えてきたのか?
コックをひねってお湯を止めた。頭を振ると髪の先からしずくがいくつも飛んだ。
ちがう、俺は別に……昔みたいなじゃれ合う関係に戻りたいなんて。思わない。さびしくなんかねーよ。ただ、なんでだろって不思議に感じてただけで! 単に心にひっかかってただけで! さもなきゃ、一緒にホテルに一泊なんて……了承するわけない。
今の間柄でいいんだ。気楽で、緊張感がなくて、よけいなこと考えなくてよくて。
そういう、こと……。
「あっ」
俺は思わず口に出した。木下さんの肝心なことを確認していなかった。流されてた。や、でも。俺はそーゆー対象から外れてるよな。もうからかわないって誓った舌の根も乾かぬうちに破廉恥なことするはずねーよな。うん。何度も頭からお湯をざぶざぶかぶった。